ゲーム「Fate/Grand Order」の登場人物について、歴史上・伝承上の姿についてご紹介しているこのシリーズ。
今回からは、最近ゲーム中のイベントでスポットが当たり生前についても少し語られた織田信長と、その周辺の人物について順に追っていきたいと思います。
という事で、初回は「織田信長」です。
戦国時代、秀吉・家康と並び三英傑として名を残した英雄の一人。
自ら天下統一を成し遂げるには至らなかったものの、混乱を極めていた戦国時代で躍進の道を突き進み、時代の流れを作った力強さが魅力的な人物です。
そんな信長が歩んだ道程や、彼にまつわるエピソードなどを紹介していきたいと思います。
天下統一を目指した信長の道のり
有名な人物ですので、まずは彼が天下取りを目指して歩んだ道をざっと振り返ってみましょう。
織田信長は1534年、尾張地方(現在の愛知県西部)で有力な氏族であった織田氏の中の一人、織田信秀の嫡子として生まれました。
1551年、18歳の時に亡くなった父に代わって家督を相続。
信長は順々に周囲の勢力を取りまとめていき、まずは尾張地方の有力者となります。
そして1560年。「桶狭間の戦い」において今川義元を討ち取った事が、信長が天下へ踏み出す最初のきっかけでした。

今川家は戦国大名の中でも特に広大な領地を持っていた家の一つ。
それを一地方領主の信長がわずかな兵と奇襲作戦で討ち取った事は当時の世情に大きな衝撃を与え、信長の名を知らしめました。
この戦によって今川家のもとにいた徳川家康が独立して信長と同盟を結んだり、室町幕府の人物であった足利義昭が信長の味方につくなどといった出来事も彼にとって有利に働きました。
特に足利義昭は信長の上洛(京都へ行き、幕府からお墨付きをもらうこと)を助けたり、義昭が幕府の将軍となった際に信長を後見人とするなど、彼が権威を持つための大きな助けとなりました。
もっとも義昭の本来の狙いは力を失っていた室町幕府の再興であり、自身の権力を求める信長とは後に決裂してしまいますが。
その後も信長は美濃斎藤氏や朝倉氏といった各地の有力者を次々と打ち破り、領地を広げていきます。
一方、彼の行動には必要とあれば寺院ですら焼き打ちするなどといった過激なものも多く、政治や信教などさまざまな行き違いにより内外から不満も湧き上がりました。
そうした軋轢から、1568年から1582年にかけ「信長包囲網」と呼ばれる大規模な戦が三度にわたって起こります。
その時々の政情により開戦理由や敵勢力は異なりますが、名前の通りどれも信長VS反信長勢力の連合という構図です。
多くの勢力を相手取ったこの長い戦いにおいて、信長は一時は追い詰められることもありましたが、最終的には包囲網を打ち破り更に勢力を増す結果となりました。
先に挙げた足利義昭と決着がついたのもこの頃。
義昭が京都から追放される事で室町幕府は事実上滅亡し、本格的に戦国武将が天下の実権を握る事のできる状況となりました。
最後の一手は、1575年の「長篠の戦い」。
長らく信長に匹敵する最大勢力であった武田家との戦いですが、この時期の武田家は名将だった武田信玄が病死し、息子勝頼が跡を継いで間もなかった頃。
大軍を率いて攻め込んだ信長に勝頼は大敗し、武田家の勢力は瓦解しました。

最大の敵武田家に勝利した事で、信長は当時の日本最大の勢力となりました。
天下統一まであとは時間の問題……といった頃に起こったのが、1582年の「本能寺の変」。
臣下である明智光秀に反逆され、志半ばで信長はこの世を去ります。
天下統一は信長配下の一人だった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が彼に成り代わって成し遂げるのは、皆さんご存知の通りです。
「尾張の大うつけ」と呼ばれた青年時代
大まかにまとめると快進撃を続けていたように見える信長ですが、その影にはやはり多くの苦難もありました。
特に若い時代は苦労が多かったようです。
信長の通り名の一つに「尾張の大うつけ(大馬鹿者)」というものがあります。
青年時代の信長が奇行を繰り返していた事からついた蔑称ですが、その言動の中には自分の身を守るための策略も含まれていました。
戦国時代初期、尾張地方では織田氏の他の分家も含めた数々の勢力が小競り合いをしていました。
そんな中で織田家の一つの跡継ぎとして生まれた信長。
いつ暗殺者などの魔の手に狙われるかもわかりません。
信長は敵の目を逸らすため、「跡継ぎには向かない愚か者」を演じていたと言われています。
「大うつけ」信長は、学問に不真面目な態度をとる、粗暴で無礼な行動を繰り返すといった武家の跡取りとしては考えられない言動を度々取っていました。
「父親の葬儀で焼香をバラまいた」という逸話もあります。
これは現代でもちょっと考えづらい無作法ですね。
一方で、奇抜な服装を好む、身分の差を超えて町の若者と触れ合う等といった面もあり、これらは先進的な信長の性格ゆえのものにも思えますが、やはり保守的な人々には愚か者の行動に見えたようです。
こうした言動は信長が騙そうとした外敵ばかりでなく、自分の家臣たちのひんしゅくも買ってしまうことになります。
その最たるものが1556年に起きた「稲生の戦い」でした。
信長の弟信勝が兄を見かねた一部の家臣たちと共に反旗を翻し、信勝を当主にすげかえようとした戦いです。
この戦は信長の勝利に終わり信勝は敗走しました。
なおも信勝は下克上を狙ったようですが、信長の一計により暗殺され失敗に終わります。
この反乱において、信長は頭目であった信勝を殺害した一方で、信勝についた者たちは不問として再び自分の家臣とするといった温情も見せています。
このような身内との戦いも繰り返しながら、若き日の信長は勢力を広げていきました。
FGOにおいては信長が女性なため「稲生の戦い」について少しアレンジがされており、「女性である信長が後継ぎとなる正当性を示すため、信勝が一芝居打って信長の有能さを見せた」戦いだったという事になっています。
「第六天魔王」を名乗った理由
さて、信長の別名の話を一つしましたのでもう一つ、有名な「第六天魔王」についてのお話もしておきましょう。
この呼び名の出典はなんと信長自身の書いた書状。
とだけ言ってしまうとなんだか現代でいう中二病のようですが、信長がこれを自称したのには事情があります。
その前に、彼が名乗った「第六天魔王・波旬」とは何か、ということを簡単にご説明しましょう。
これは仏教の世界観におけるおける「六欲天」という場所の最上位(第六天)に住む魔王のことを指します。
六欲天は天界の一部でありながら仏教では悪とされる欲に囚われた世界で、そこに住む者は地上の人間を堕落に誘う存在とされます。
その最上位の存在、つまりは「仏の教えを阻害する最大の敵」という事です。
信長がこの名を使ったのは武田信玄と交わした書状の中でした。
前述の通り信長は寺院の焼き討ちも行っているのですが、仏門を支援していた信玄はこの件を受け、信長に宣戦布告を行います。
その文書の中で信玄は自らを「天台座主・沙門(てんだいざす・しゃもん)」と称しました。
「天台座主」とは信長に焼かれた延暦寺の長の称号で、「沙門」は修行僧のこと。
「自分の立場は延暦寺の僧たちと同じ。信長に滅ぼされた寺院に代わって信長を討つ」という意味を込めたと思われます。
それに対して信長が返した返事が、自分を「第六天魔王・波旬」と称した書状。
「信玄が仏門の味方なら、自分は仏門の大敵となってでも迎え撃とう」という、信玄の名乗りを受けた答えです。
「魔王・信長」という響きの印象深さから、信長自身をそのような人と描く作品もありますが、実際は当人の人格と関係ある言葉ではなく、仏門にたいする信玄と信長の個人的スタンスを仏教用語になぞらえた言葉でした。
あるいは、もっとシンプルに「売り言葉に買い言葉」だったのかもしれません。
信長の人物像

このように功績や逸話を追っていくと、信長がどんな人物であったかも見えてくるかと思います。
型にとらわれず、はたから破天荒と言われたり反感を買う事があっても、自分の信じた道を行く。
そういった性格は戦いにおいては、トップである彼自ら先陣を切り味方を鼓舞した、本拠地とする城を領土を広げるにつれて別の城へ移転させていったなど、当時としては例のない戦略にも表れています。
また無類の新しもの・南蛮(海外)由来の品好きという側面もあり、当時最先端の武器であった火縄銃をいち早く取り入れ、「長篠の戦い」において3000丁もの火縄銃部隊を編成しています。
この時、弾込めに時間がかかるというデメリットを三部隊をローテーションさせる事で克服したといういわゆる「三段撃ち」も有名な逸話です。
FGOにおいてもそのまま「三段撃ち」の名前で信長の宝具(必殺技)の一つとして実装されていますね。
戦のみでなく内政においても、それまで曖昧だった土地の測量をきちんとやり直し年貢の量を明確にする、「楽市楽座」といって商人の独占販売や既存の特権を禁じて経済の流動化を促す政策を敷くなど、古いしきたりを革新して合理化を計ったりもしていました。
また彼には秀吉を「サル」と呼んでいた有名な逸話を始め、気に入った臣下には独自の愛称で呼ぶ癖がありました。
若い頃に持っていた、身分の差を気にせず交流する性分の名残でしょうか。
必要とあれば味方の約束を反故にしたり、敵となれば容赦なく戦ったりもする彼でしたが、そうした政治的思惑を横に置いた時は家臣に対して親しみを持って接する所も多かったようです。
特にお気に入りの相手には多少の命令違反は不問にするなど、少々甘すぎる面もありました。
燃える本能寺で静かに迎えた最期

天下統一目前まで辿り着きながら、あと一歩という所であっけなく幕を閉じた信長の生涯。
その結末を迎えても信長は「是非に及ばず(仕方がない事だ)」という言葉で全てを達観し、お気に入りだった能の演目「敦盛」にある、人の世の儚さを語る一幕を演じたという逸話もあります。
敦盛については燃える本能寺の中での出来事なので真偽は定かではありませんが、死の間際にあっても自分の運命を受け入れる強さを持つ人であったという事に変わりはありません。
織田家を一地方領主から日本最大勢力にまで躍進させたという大きな功績を残しているのもさることながら、苛烈なほどに先進的で己を貫き続けた人物像が、織田信長を現代もなお多くの人に愛される武将の一人とさせているゆえんなのでしょう。
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