【神話事典|楠木正成】名刀菊一文字を携えた軍神の化身

千早城合戦図
千早城合戦図(長梯子の計の場面、歌川芳員画、原典

楠木正成の基本情報

  • 名:楠正成、大楠公、多聞丸(幼名)、河内判官、兵衛尉、左衛門尉
  • 神号:南木(なぎ)明神
  • 神階:正一位(しょういちい)(注1)
  • 神社:湊川神社
  • 出典:太平記、梅松論
  • 時代:鎌倉時代末期~南北朝時代
  • 所有:菊一文字(刀)、黒韋威胴丸(鎧)
  • 特徴:大局を視る戦略や戦争時の戦術に秀でる。後醍醐天皇に対して厚い忠義心を持つ。
  • 関連:父は楠正遠(まさとお)、母は橘氏。弟は正季(まさすえ)。子に正行(まさつら)、正時、正儀(まさのり)。先祖は橘氏。姉妹があり、伊賀の服部氏族に嫁ぐ。子に申楽師の観阿弥(かんあみ)。
(注1)正一位とは

位階(臣下)・神階(神)の最高位。

楠木正成の概要

楠木正成像
楠木正成像(原典

鎌倉時代の末期、忠義と軍略をもって、幕府打倒を目指す後醍醐天皇に仕える。

河内国(現在の大阪東部)の金剛山において反幕府勢力として挙兵。

奇策を用いて大軍を翻弄し、倒幕の機運を世に形成する。

倒幕が成就し、鎌倉幕府が瓦解。

後醍醐天皇の親政(注2)が始まったが、足利尊氏と対立。

形勢不利な中、天皇への忠義を貫き湊川(兵庫県神戸市付近)へ出陣。

足利軍と会戦するが敗北。最後は、弟・正季と刺し違える。

(注2)親政とは

幕府などに委任せず、天皇がみずから政治を行うこと

1370年頃に成立した軍記物語:『太平記』にその活躍の多くが記載されている。

時は移り没後約300年、江戸時代中期。

尼崎藩主:青山幸利(ゆきとし)が太平記の忠義の士・楠木正成を再発見したことを皮切りに、国学(注3)者に勤王(注4)の模範とされ崇拝されるようになる。

(注3)国学とは

江戸中期に興った、古典を通し日本固有の文化を研究する学問

(注4)勤王

天皇に忠節を尽くすこと

幕末には勤王の志士に担がれ崇拝の対象となる。

明治時代の初期には、別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ)(注5)最初の神として祭られる。

皇居には、国家のために尽くした忠臣として和気清麻呂とともに銅像が建てられている。

(注5)別格官幣社

国の発展のために貢献した人臣を祭神とした神社のこと。

明治5 (1872) 年、楠木正成を祭る湊川神社が最初に定められた。

楠木正成に関する説話

楠木正成の出自について

鎌倉幕府の御家人(家来)であったのか、体制に対抗する勢力:悪党であったのか、楠木正成の出自は明らかにされていない。

「御家人」楠木

現在の静岡県、または東京都のあたりに居住していた北条家の家来であった楠木氏が、大阪府の河地エリアに移ってきたのではないか、と言われている。

1322年、正成は北条氏の命令により、現在の大阪、奈良、和歌山で鎌倉幕府に反逆の意思を示した渡辺氏、越智氏、湯浅氏を攻撃し滅ぼし、その一部領地を与えられている。

また、1333年の公家の日記に、「楠木の出身は鎌倉である……」という意味の落書きがあった旨が記録されている。

「悪党」楠木

悪党とは、中世日本においては、荘園(貴族・寺社の私有地)などを横領し、既存の権威に対抗した者を指す。

剽悍(ひょうかん)さや力強さを持った者、といった意味も含まれる。

楠木正成が悪党ではなかったか、と言われるには2つの理由が挙げられる。

1つは、後醍醐天皇の挙兵の翌月。

現在の大阪府堺市にあった寺領を襲い、年貢を収奪していること。

もう1つは、正成の一族(父又が兄弟か?)、河内楠木入道の動向である。

1295年に播磨国の東大寺私有地を襲った悪党の一味として記録されている。

軍神の化身

奇策を縦横に使い、大規模な幕軍を赤坂城・千早城に引きつけることによって日本全土の倒幕の反乱を誘発。

鎌倉幕府打倒に貢献した。

赤坂城の戦い

下赤坂城攻防
下赤坂城攻防(原典

鎌倉幕府の打倒を掲げた後醍醐天皇に誘いを受け、現在の大阪府(河内国)の赤坂城で挙兵。

「正成はかつて幕府に反逆した武士を討伐した合戦の名人である」という認識が幕府側にあったため、関東から大軍が送り込まれてくる。

城に迫る敵に大木や大石を投げ落とし、塀に近づいた敵に熱湯をかけてこれを退けた。

正成軍は数では大きく劣りながらも、幕府軍の攻撃によく耐えた。

しかし長期戦は不可能と考え、1331年10月21日夜に赤坂城に自ら火を放ち、撤退。幕府軍に城を奪わせる。

幕府軍は赤坂城内に顔の見分けのつかない焼死体を数十体発見。

これを楠木正成とその一族と認識し、関東へ軍を引き上げた。

赤坂城の奪還

1332年4月、正成は幕府軍の守る赤坂城を襲撃した。

赤坂城内に兵糧が少なく、夜陰に乗じて城に兵糧を運び入れることを聞きつけた正成。

まずはその道中を襲って兵糧を奪い、自分の兵と兵糧を運ぶ人夫を入れ替える。

そして、空になった米俵に武器を仕込む。

楠木軍は兵糧補給の人夫のふりをして城内に入ると、米俵から武器を取り出して幕府軍に攻めかかる。

これにより幕府軍は一戦も交えることなく降伏。

正成は赤坂城を奪還した。

大阪の平野部へ勢力拡大

赤坂城を奪還した正成は、現在の大阪の平野部(和泉・河内)へ進出。

5月には住吉・天王寺にまで進攻。

そのため京都では正成が京に攻め込んでくると噂がたち、六波羅探題(注6)から5千の軍勢を派遣した。

(注6)六波羅探題とは

京都における鎌倉幕府の出先機関。乱を防止するための監視が主な役割。

大阪・渡辺橋を挟んでにらみ合う六波羅軍、楠木軍。

楠木軍が少数であったため、六波羅軍は我先に攻めかかろうとしたが、陣形が崩れたところを、正成が伏せていた伏兵に三方から攻め立てられ大混乱に。

多くの兵が討ち取られた。

「坂東一の弓取り」宇都宮公綱(うつのみやきんつな)との戦い

次に出てきたのは、武勇で誉れ高い宇都宮公綱。

宇都宮軍は天王寺に布陣したが、その軍勢は楠木軍より少数であった。

正成の家臣は攻撃を仕掛けることを進言してきたが、「宇都宮公綱自身の武勇、その家臣の精強さ」を理由に、持久戦を選択。

夜に周辺の山で松明に火を付け、攻め寄せるふりをした。

寝不足と緊張状態が三日三晩続いたため、心身ともに疲労した宇都宮軍は撤退。

被害を出さずに強敵を退けた。

千早城の戦い

千早城合戦図
千早城合戦図(長梯子の計の場面、歌川芳員画、原典

幕府軍は赤坂城が楠木軍に奪われたことを聞きつけ、再度大軍を関東から送り込む。

一方、正成は赤坂城のある金剛山一帯を要塞化し、指揮所として改修した千早城に籠城。

千早城、上赤坂城、下赤坂城の3城で幕府軍を迎え撃つこととなる。

ここでも得意のゲリラ戦を展開し、攻め寄せる幕府軍に力攻めの不利を悟らせ持久戦に。

「山の上に立て籠もっているため、食料、水が切れるのは時間の問題」と幕府軍は認識していた。

しかし実際は、相当な量の食料が備蓄されており、協力者により運び込まれることもあった。

水に関しても同様に確保されていたのでなかなか楠木軍の士気が落ちない。

ここで3カ月間、関東の大軍がくぎ付けにされている間に、後醍醐天皇が幽閉されていた隠岐の島を脱出。

倒幕の命令を全国に発すると、これに播磨国赤松氏、伊予国河野氏、肥後国菊池氏が呼応して蜂起をした。

全国的な反幕府の軍事行動に千早城を囲んでいた大名も帰国を余儀なくされ、楠木正成の籠城戦は
ここに終結する。

なお、鎌倉幕府が滅亡したのは、千早城の戦いが終了した12日後である。

忠義の士(湊川合戦)

倒幕が成った後、後醍醐天皇の政治は武士に受け入れられなかった。

足利尊氏は、その不平武士を糾合し、武士のための世をつくるため、後醍醐天皇と決裂。

一方正成は、世の武士の求めているもの、尊氏の能力を鑑み後醍醐天皇に和平を進めるが、却下されてしまう。

九州で力を蓄えた足利尊氏の大軍が京都を目指して進軍してくる。

迎え討つには、兵の数、質、指揮官の器、時勢どれをとっても天皇側に不利であり、負けることは明白。

そんな中、正成の選んだのは、勝算が無い戦に天皇軍として出陣すること。

戦場となる現在の兵庫県神戸市の湊川に向かう途中、同行を願う息子に、正成は領地である河内に戻ることを命じる。

「私とお前が死ねば、この後帝を守る人がいなくなってしまう。

忠義の心を大切にし、一族をお前がまとめあげ、いずれ朝敵を滅ぼしなさい」

湊川で、新田軍とともに足利の大軍を迎え撃った正成。

兵の数が少ない中奮戦するが、兵力差はいかんともし難く徐々に敵に包囲されていく。

73騎まで数を減らすと、死に場所を求めて、民家に入り弟の楠木正季と刺し違えて自刃。

刺し違える時に「七生報告(七度人として生まれ変わり、朝敵を誅して天皇家に報いたい)」と言い残したと言われる。

楠木軍のシンボル 菊水紋

天皇家の紋章「菊の御紋」は、鎌倉初期の後鳥羽上皇が好んだため使われ始めた。

時代は下がり後醍醐天皇は、楠木正成の忠節に報いるためこの菊の御紋を下賜する。

しかし、正成は天皇家と同じ紋であることを畏れ多いとして下半分を水に流した「菊水紋」にしたという。

伝承として「天皇自らが菊の花を杯に浮かべ正成に与えた。正成はこの花を旗印とした。これが菊水の紋である」という話も伝わっている。

名刀「菊一文字」

兵庫県淡路島にある松帆神社の社宝、「菊一文字」は、楠木正成の遺品と考えられる。

鑑定によると、作られたのは承元時代(1207~1211年)。

備前福岡の刀工、一文字派の祖である則宗(のりむね)の作と見られる。

長らく朝廷で保管されていたが、鎌倉倒幕成就の恩賞として楠木正成が賜った。

その後、討ち死にを覚悟して出陣した湊川の合戦で楠木正成は自刃の前に、家臣・吉川弥六に八幡大神とともに愛刀を託す。(注7)

弥六は湊川の戦場から脱出。

淡路島に逃れて小祠を建て、八幡大神を祭祀。

これが現在の松帆(まつほ)神社の原型であり、名刀は社宝として伝えられることになった。

兵法の師は毛利元就の先祖

大江氏の41代、時親(ときちか)は、金剛山麓に館を構え、周辺の豪族に兵法を伝授するようになる。

その中には、鎌倉幕府を打倒し、足利尊氏と対立した若き日の楠木正成もいたとされる。

大江時親は、戦国期の中国地方の覇者:毛利元就の先祖とされる人物。

『闘戦経(とうせんきょう)』という兵法書を教えたとされている。

大江氏は代々、朝廷の書物を管理してきた家柄。

その関係から、平安時代末期に成立したとみられる日本最古の兵法書『闘戦経』を管理し、見ることのできる環境があった。

脚注

後注

  • 注7:吉川弥六の子孫の家系に以下が伝わっている。

「菊一文字は落人間で廻し持ちして隠し、その後領主を通じて八幡宮に奉納した」

出典

参考文献

  • 『太平記』
  • 『梅松論』
  • 『武士神格化の研究』高野信治 吉川弘文館
  • 『武将列伝』海音寺潮五郎 文春文庫
  • 『毒舌日本史』今東光 文春文庫
  • 『私本太平記』吉川英治 講談社
  • 『日本の神様』青春出版

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