今回のお話に神様は出てきません。キーワードは「水戸学」そして「大日本史」です。
この時点で興味を失った方がいると思いますが、どうかもう少しだけお付き合いください。水戸学を説明するにはまず、その元となった大日本史について説明しなければなりません。
大日本史とは、江戸時代に水戸藩(現在の茨城県の中・北部)で二百数十年かけて編纂された歴史書です。
扱っているのは神武天皇(前660年)から後小松天皇(1382年即位)までの治世です。ちなみに日本書紀は神代(年代不詳)~持統天皇(690年即位)を扱っています。
大日本史は神代を扱わないためイザナギやイザナミのような神様は出てきません。
しかし世界中に存在する神話と同じように、多数の人々が神聖な真実だと信じ、生活の規範とし、思想の基盤としました。
そしてそれが水戸学という思想としても進化し、発展していったのです。
今回お話するのは、そんな水戸学が生まれた理由と、それがもたらした悲劇の物語です。
水戸藩の苦しい立場
水戸藩は将軍を輩出できる家柄、徳川御三家の一角を担う藩です。しかしそれが原因で慢性的な財政難に苦しめられることになります。
水戸藩は参勤交代を免除される代わりに、代々藩主の江戸での常駐を命じられていました。そのため江戸と水戸での二重の行政支出が発生していたのです。
物価の高い江戸での生活、江戸と水戸の家臣にかかる二重の人件費が水戸藩の財政を圧迫しました。
そして江戸時代、諸藩を悩ませたのが江戸幕府から要求される軍役や普請です。
通常、藩の石高に応じた量の人数や資金、資材を供出するのですが、水戸藩は徳川の身内ということもあり実際の石高以上の供出を求められていたのです。
徳川御三家の中で実際の石高が最も低い水戸藩は特に苦しむことになりました。
その結果、水戸人は徳川御三家という誇りと、目の前の困窮した生活という現実の間で苦しむこととなったのです。
水戸黄門と大日本史
そんな中、時代劇「水戸黄門」でお馴染みの水戸二代藩主徳川光圀が自堕落な放蕩生活を改め、学問に没頭し史書編纂を志します。
その史書は後年「大日本史」と命名され、その思想は「水戸学」として日本中に知れわたることとなります。
特徴は徹底した尊王論(天皇を尊しとする思想)です。
しかしそれは決して江戸幕府を軽んじるものではなく、大政委任論を根拠とした尊王敬幕(天皇家も江戸幕府も尊いものだという考え方)の思想でした。
江戸幕府は天皇から国政を委任されているのだから、その権力は非常に尊く揺るぎないものだという理論
つまりは、「天皇家を支え、天皇より政治を委任されている徳川家の持つ権力は神聖で揺るぎないものである」という思想です。
この思想を中心に培われていった水戸藩独自の江戸幕府正当化の思想を「水戸学」と呼びました。
大日本史の編纂は水戸藩の一大事業として260年間続けられ、完成したのは明治時代に入ってからです。
苦しい財政をさらに傾け、尋常でない執念により作り上げられた大日本史・水戸学とはなんだったのか?
それは自分達の苦しい境遇に対する大義名分だったのだと思います。
江戸幕府を正当化する理論を作り上げることで、自分たちの困窮には大義があると信じたのです。
幕末の悲劇
そして時は経ち、時代は幕末を迎えます。
黒船来航をきっかけに攘夷(外国人を撃ち払って国内から追放すること)と開国の二択を迫られた日本。
幕府は欧米列強の武力に屈し、朝廷の許可を得ないまま不平等な条約を結ばされてしまいます。
さらに時の孝明天皇は大の異人嫌いで、朝廷と幕府は次第に対立していきます。
ここで一つ思い出してください。
水戸学は「江戸幕府への忠誠を正当化するための徹底的な尊王論」でした。
朝廷への幕府の忠誠という大前提を失った水戸学は、ただの過激な尊王論となり下がり一瞬で討幕思想に変貌を遂げました。
結果、藩内では徳川家の一員として江戸幕府を擁護する保守派と、水戸学を思想基盤とした過激な攘夷派の間で対立が発生します。
幕末初期には攘夷派である徳川斉昭、藤田東湖といったカリスマ的な人物を輩出し、水戸藩は一挙に時代の表舞台に立ちます。
しかし藤田東湖が安政の大地震で死亡、徳川斉昭が安政の大獄で蟄居となると一転して保守派が藩の実権を握ります。
何とか盛り返したい水戸の攘夷派は桜田門外の変、イギリス公使館襲撃、坂下門外の変と過激なテロ行為を繰り返し、幕府との対立を深めます。
そうして追い詰められた攘夷派は筑波山で挙兵。藩の保守派や幕府軍と交戦するも、敗走しながら福井県まで辿り着きそこで降伏します。
しかし、待ち受けていたのは関係者353名の斬首という前代未聞の非情な処置でした。
それに加え主導者だった人物の一族を全員斬首にするなど、憎しみが憎しみを生む最悪の状況に陥っていきます。
そして3年後、江戸幕府が滅亡寸前となると今度は攘夷派が実権を掌握。
難を逃れていた攘夷派も続々と帰藩し、今度は保守派に対する粛清が始まり内戦に発展します。
この最後の大規模な内戦は「弘道館戦争」と呼ばれ、保守派が壊滅するまで続きました。
そして気づいたときには薩長土を中心とした明治新政府が誕生しており、そこに送り込めるような人材は残っていませんでした。
しかもほとんどが同士討ちで死んだのです。
水戸学が生んだ悲劇
以上、人々が心のよりどころとし、団結するためのものだったはずの神話が生んだ悲劇の物語でした。
水戸学は実際に当時の水戸の人々の苦しみを癒し、しっかりとその機能を果たしていたのだと思います。だからこそ異常ともいえる執念で編纂が続けられたのではないでしょうか。
しかし、その理屈が一瞬で破綻する危険性を常に孕んでいたことに、誰も気づけなかったのかもしれません。
幕末にやっと日の目を浴びるかに思えた水戸藩は、今までずっと自分たちを救ってくれていた水戸学により、血で血を洗う内部抗争に陥りました。多くの若い命が本来の志とはかけ離れた理由で消えていったのです。
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