日本史の大きな分岐点の一つとなったのが、武家政権の誕生です。
そして最初の武家政権を作ったのが、平清盛率いる平家一門でした。
栄華を誇った平家ですが、ご存じの通り源氏との戦いに敗れ、悲惨な最期を遂げてしまいます。多くは討ち死にするか自害、生き残った者は捕縛されて処刑されました。
しかし、中には追手から逃れ、人里離れた山中や離島へ逃げ込んで生き残りを図った者達もいました。その人々は「平家の落人」と呼ばれます。
この事に次第に尾ひれがつき、「平家の落人伝説」などと呼ばれるようになります。
その結果、日本各地に平家の落人にまつわる伝承が残り、怪談の「耳なし芳一」や、映画にもなった「八墓村」と言った有名作品のモチーフともなっています。
山奥の秘境に隠れ住んでいるという神秘性に加え、盛者必衰のはかなさが日本人の心をつかんで離さないのでしょう。
今回は、そんな平家の落人伝説について解説していきます。
必死の逃避行の理由
平家の落人伝説は日本各地に存在し、北は青森県、南は沖縄にまで及びます。
一つ一つの真偽はともかくとして、なぜそこまで徹底的に逃げる必要があったのでしょうか。
その理由の一つ目は、源頼朝による激しい残党狩りです。
頼朝は平治の乱で敗北して落命した源義朝の三男です。幸運にも死罪を免れ、伊豆へ流罪となっています。そしてそこから軍を興し、やっとの思いで平氏を滅ぼします。
そんな頼朝が権力を手にした時、最も恐れたのが自分と同じ残党の再起でした。
頼朝による平家の残党狩りは苛烈を極めたと言われます。尋常でない捜索の様子がうかがえる資料の一つに、江戸時代に著された「椎葉山由来記」があります。
1205年、那須宗久率いる追討軍が、椎葉村(現在の宮崎県東臼杵郡椎葉村)にある平家の隠れ里を見つけ出したものの、帰農してから20年も経っている落人達に戦意なく、討伐を中止したと記述されています。
この椎葉村という場所は、山深い九州山地のほぼ真ん中に位置し、標高1000m以上の剣俊な山々に囲まれた秘境中の秘境です。どれだけ捜索すればその中の小さな集落を発見できるのか、また壇ノ浦の戦いから20年という歳月を考えても、執念というほかありません。
敵に温情をかけて禍根を残すことの恐ろしさは、頼朝本人が一番わかっていたのです。
もう一つは農民による落ち武者狩りです。
落ち武者狩りと聞くと、一部の農民が行っていた犯罪行為のように思われるかもしれませんが、実際には組織的かつ計画的に行われていました。
当時、権力の座を奪われた敗者を「法の外の人」とする価値観が存在し、戦に敗けた兵士は略奪の対象となりました。
また中世の農民は、地域ごとに惣(そう)と呼ばれる強い結びつきで結合した自衛組織を組んでおり、落ち武者が出たと分かると数百人単位で集結し、戦さながらに略奪行為を働きました。
この慣習は、豊臣秀吉が「惣無事令」で私闘を禁じるまで続きました。
伝説の信憑性について
しかし平家の落人伝説は、主なものだけで全国で約80カ所もあります。実際のところ信憑性はいかほどなのでしょうか。
平家の落人伝説捏造説という論調も存在します。木地師などの移動集団や、外部からの入植者が、自己の正当性を主張するために出自を捏造したとする説が主な論拠です。
柳田国男は平家の落人伝説のある土地の数が多すぎる点を指摘し、平家の生き残りを一人ずつ配置しても足りないと主張しています。
そもそも山中に逃げ込み、出自をひた隠しにした人々ですから証拠を見つけるのは容易ではありません。
しかし、実際には「平家の落人」には平家一門の人間だけでなく、その家臣、郎党や、平家に味方をした公家とその郎党が含まれます。平家の没落により逃亡を強いられた人間は膨大な人数だったと予測できます。
実際、源氏の圧迫を受けて西へ追いやられたものの、元いた地域に残って源氏を襲撃する勢力もあり反乱は断続的に続きました。
このように大規模な平家の残党が全国に散りじりになったと考えるならば、平家の落人伝説が日本中に多数存在することも不思議ではないと言えるかもしれません。
実在する平家の里
では捏造説を紹介した上で、平家の里として特に信憑性の高い2か所を紹介したいと思います。
一つ目は既に名前が登場した、宮崎県の椎葉村です。
この集落の由来は、江戸時代に編纂された「椎葉山根元記」と「椎葉山の由来」にて以下のように記されています。
壇ノ浦の戦いで敗れた平家残党の一部が、九州の山奥の椎葉の里に逃れてきてこの地に隠れ住むようになった。しかし、やがては鎌倉幕府の知るところとなり、那須大八郎を大将とした追討軍が派遣された。
1205年、追討軍が椎葉に到着したが、落人達には既に平家再興の意思は無く、農業に従事しながら平穏に暮らしていた。大八郎は討伐を中止した上、この土地を気に入りそのまま滞在した。
平家の氏神である厳島神社を勧請したり、村の発展に力を貸した。そうしているうちに平清盛の末孫である鶴富姫と恋に落ち子供も授かったが、鎌倉から帰還の命令が下り、別れることになった。大八郎は「子供が男子なら下野へ送れ。女子ならここで育てよ。」と言い残した。産まれたのが女子だったため、大八郎の子はこの地で育った。
この子の子孫は那須という名字を名乗り、今でも那須は椎葉の集落で最も多い苗字だそうです。
また大八郎が勧請した厳島神社は、椎葉厳島神社として今でも残っています。
次に、徳島県の祖谷です。
徳島県北部の四国山地に位置し、大歩危小歩危と言われる人の侵入を拒むような断崖の多い地です。
祖谷は、かずら橋という吊り橋が名所としても有名ですが、これは追手が来たらすぐに切り落とせるようにしたものだそうです。
祖谷の阿佐集落には、今でも続く阿佐家が居住しており、平清盛の甥である平国盛の子孫と伝わります。
家伝によれば、壇ノ浦で入水した安徳天皇は影武者で、平国盛が安徳天皇を連れて祖谷まで逃げ延びたそうです。
阿佐家住宅は、谷合の農村には不釣り合いな立派な武家屋敷で、家宝として平家の赤旗が伝わります。
阿佐家の墓には墓碑が無く、どれが誰の墓かは口伝のみで伝わっているそうです。これは国盛の「名を消して墓に入れ」という遺言に従ったものです。
また近在の栗枝渡八幡神社は、安徳天皇の墓と言われ、鳥居の無い珍しい神社です。境内には「御火葬場」という、病死した安徳天皇を火葬した場所も残っています。
ロマンある平家の落人伝説
平家の落人伝説について紹介しました。
中には大した信憑性の無い場所もあると思います。しかし、当時の状況や時代背景をまとめてみると、少なくとも落人伝説自体は事実だろうと思えてきます。
九州山地の奥深くに鎮座する厳島神社、墓碑の無い墓など、明らかに意図を感じる遺物を知ると、ロマンを感じると同時に落人たちの苦労が偲ばれます。
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