「エルギンマーブル」という言葉を、ご存知でしょうか?
その名前は聞いたことがなくても、「もともとはパルテノン神殿にあった考古学的な価値を持つ彫像群が、イギリスの大英博物館に展示されており、ギリシア政府がそれをギリシアの博物館に返却してほしいと依頼しているが、何十年も合意に至らずずっとモメている」という話については、なんとなくニュースで聴いたことのある方も多いかもしれません。
また、そういうところで報道されている内容としては、「イギリスが半ば強引にギリシアのパルテノン神殿の彫像を剥がして持ち去ってしまった。それをギリシアが返してほしいと言っているのに、イギリス側がなんだかんだナンクセをつけて返してくれないのだ」というニュアンスになっているのではないでしょうか?
少なくとも「判官びいき」な傾向のある日本では、この問題、「イギリスが悪くてギリシアがかわいそう」という構図で紹介されることが多いように思えます。
ですが実際の事情は、もっと複雑です。
そもそもイギリスはそれなりに正規の手続きをとっていた!エルギンマーブル移送の背景
ことの発端は、十九世紀のはじめ。
イギリスのエルギン伯爵トマス・ブルースという人物が、オスマン帝国のスルタンに許可を取り、アテネのアクロポリスにたたずむパルテノン神殿に工事要員を送り込みます。
そして神殿を飾っていたレリーフや彫刻一式をごっそり削り取り、イギリスに移送してしまいました。
この時に移送された一連の彫像群が、「エルギン伯爵の持ち出した大理石(マーブル)の彫像一式」ということで、「エルギンマーブル」ないし「エルギンマーブルズ」と呼ばれるようになりました。
現在は大英博物館の展示物のハイライトとして、世界中の人の関心を惹き続けています。
なるほど、これらがもしパルテノン神殿にそのまま残されていれば、当然、今日のギリシアの一大観光資源になっていたことでしょう。
ギリシアが返してほしいと強硬に主張するのも当然、と見えるかもしれません。
ですが注目すべき点があります。
「イギリスが勝手に持って行った」というような主張をする人も多々おりますが、実情としては、エルギン伯爵はきちんと当時のギリシア統治者であったオスマン帝国に許可を得てこの行動をとっているわけです。
彼なりに、通すべき筋には事前相談していたわけです。
なるほどオスマン帝国というのはあくまでもトルコ人の支配する帝国で、「現代のギリシア人」から見れば支配者の側です。
とはいえギリシアがオスマン帝国から独立して今日の国の形をとるのは十九世紀に入ってかなり経過してからのこと。
となると問題は、ギリシアという国が独立国家になるよりも前に、当時の支配者であったトルコとイギリスとの間で結ばれた約束というのは、現代でも尊重すべきかどうか、となってきます。
これはなかなかややこしい話になってきます。
そもそもギリシア側も最近までそんなにエルギンマーブルに関心はなかった?!
ここにもうひとつ、ややこしい話が加わります。
現代ギリシアの人たちは敬虔なキリスト教徒であり、ギリシア正教会の信徒さんです。
民族的にも、いわゆるビザンチン帝国の中で混血を繰り返してきた人たちの子孫とされています。
古代ギリシア人と、直接の血のつながりはないのです。
この事態を解き明かすために、ちょっと現実離れしたおおげさな比喩をあげると、こんな感じでしょうか?
- ハワイにて、古代ポリネシア民族の伝統的な文化財を日本の発掘チームが見つけ出し、東京の博物館に展示したいとアメリカ政府に相談した
- アメリカ政府があっけなくOKを出してくれたので、日本は喜んで東京の博物館に移送した
- それに対して何十年も経ってから、ハワイ州の州知事が「あれはハワイの文化遺産だから大至急返せ」と強硬に主張してきた。
- でも聞いてみると、ハワイ州の知事は別にポリネシア系でもなんでもなく、アメリカ本土からつい最近引っ越してきたばかりの白人層らしい
- これでは、「本気で古代ギリシアの遺産を守ろうとしているのではなく、単に観光ビジネスの目的で主張しているのではないか」という邪推も生まれてしまう
そこに長年のすれ違いや意見のこじれもあって、エルギンマーブル問題は今でも解決の道筋の見えない、長い論争になってしまっているのです。
ちなみに、エルギン伯爵がパルテノン神殿のレリーフを削りだそうとした時、ギリシアの人々の中には「そんなことをすると太古の神々の呪いがかかる」という恐れを表明した人もいるとか。
実際には特におそろしい「呪い」のようなものがかかった形跡はありませんが、この論争ひとつで長い間イギリスとギリシアが険悪な論争を続けているというのは、ある意味で、「エルギンマーブルの呪い」が現代にも糸を引いていると解釈できるかもしれませんね。
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