ヘラはギリシア神話の体系の中では夫ゼウスに次ぐナンバー2、女神だけならナンバー1の存在です。
しかしギリシア神話を元ネタにした各種の創作物では、あまり登場の機会がありません。
それはギリシア神話における彼女が「嫉妬深いオバサン」として描写されているように思われるからでしょう。
果たして本当にヘラは「嫉妬深いオバサン」なのでしょうか。
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父に飲まれた幼女がギリシア神話の神の女王になるまで

ヘラはクロノスとレアという、ティターンの王と王妃の子として生まれました。
しかし、生まれた直後に父に飲み込まれてしまいます。
父の胃の中には、先に飲み込まれた姉のヘスティアとデーメーテールがいました。
彼女は二人の姉と父の体内で幼少期を過ごした…はずなのですが、どうやら父の肉体の中では時が止まっており、幼女のまま成長はしなかったようです。
父クロノスが時の支配者であった(時計=クロノグラフの名称はクロノスの名にちなんでいます)ことを考えると、ありえ得そうな話です。
初めて会った時…あの人は既婚者でした
やがて彼女は後からやってきた二人の弟(ハーデス・ポセイドン)、二人の姉と一緒に父の胃から吐き出されます。
外界に出た際彼女が見たのは、倒れて苦しむ父と、若い男女の二人組だったはずです。
この男女は、彼女の末弟のゼウスと、その妻のメーティスでした。
ゼウスは横暴な父から兄弟姉妹を救うため、知恵の女神であるメーティスと謀り、メーティスが調合した吐瀉薬をクロノスに飲ませたのです。
ただし、救出されたばかりの幼女ヘラには、そんなことは当然ながらわかりません。
強引すぎるアイツ

,アンニーバレ・カラッチ,1597年)
事情がよく分からないまま、ヘラはオケアノスの元に預けられ、そこで成長します。
この間、弟三人は父と戦っていたようですが、彼女はそのこともほぼ知りませんでした。
戦いに勝ったゼウスがオケアノスのところにヘラを引き取りに行った時、ヘラは絶世の美少女に成長していました。
すでに二人の女神と結婚し(先のメーティスの後、別の女神テミスと結婚しています)、女好きの片鱗を見せ始めていたゼウスは、美少女ヘラを見て「これは俺のものにしなければならない」と決意します。
そしてカッコウに化けてヘラに近づき、ヘラを犯そうとしたのですが、ヘラは必死に抵抗し、「正式に結婚しなければ身体を与えない」とゼウスに言います。
これを受け入れたゼウスはテミスと離婚し、ヘラを新たな正妻として迎えたというのです。
嫉妬深いヘラは彼女の一面でしかない?
神は基本、不老不死です。
このため外見は若いままですが、人生(?)経験はどんな人間よりも豊富で、精神的には老人以上に熟成されています。
そういう基本設定のもとに各種の神話を形成していくと、稀に設定矛盾を引き起こすことがあります。
このような時、神話作者たちはどうするかというと、矛盾した性格を独立した神格として辻褄を合わせる、ということをよくやるのです。
新しく生み出された神格は、古い神の兄弟姉妹か親子という設定にされます。
デメテルとその娘でハーデスの妻となったペルセポネはその典型で、元は一体であったとされています。
親子兄弟姉妹設定ではありませんが、アテナとゴルゴーンのメデューサも、元は一体であったという説があります。
実はヘラも、不完全ながらこのような性格を持っているのです。
わたしはまだ二つ変身を残しています
ヘラはギリシアにおける「主婦」の概念を神格化したものです。
古代のギリシア人は家庭の主婦を、「夫の家に嫁いできたばかりの若妻」の時期、「家庭の主催者として誇りに満ちた時期」、「子が力を持って家庭内の地位が低下し、夫の愛も衰えるようになった老女の時期」の三つの時期に区分されるようになると考えました。
各種の神話に出てくる嫉妬深いヘラは、主に老女期の性格が前面に出てきたものでしょう。
先に述べたようにこれはヘラのペルソナのうちの一面でしかないのですが、夫ゼウスがさまざまな場所で地元の英雄や神と縁付けられる機会が増えたため、「嫉妬する女神」の側面がクローズアップされたものと思われます。
ギリシア神話最高の美少女に再生する春
ヘラは一年かけて若妻から老妻へと変化していくと考えられていました。
そして春先になるとカナトスの泉で水浴をし、処女に戻って再びゼウスに嫁いでいくとされたのです。
なお、ヘラには「青春の女神」とされるヘーベーという娘がいます。
彼女は最終的にヘラクレスの妻となるのですが、元々は先に述べた流れで独立したヘラの一部分であり、カナトスの泉で生まれ変わった「処女のヘラ」と起源が同じであったことは言うまでもありません。
なお、インド神話においてもシヴァの神妃であるパールヴァティーとカーリーとドゥルガーは元は一体で、性格の極端な部分を個別の神格とした存在であると言われています。
カーリーもドゥルガーも極めて凶暴なので、単に嫉妬深いだけのヘラの方がずっとマシかも知れません。
性格の被るお姉ちゃん
ヘラには二人の姉がいます。
姉とは言ってもヘラより見た目は若い、というあたりが、男兄弟も含めた彼ら彼女らの面倒くさい特徴でもあります。
一番上の姉はヘスティアーです。
彼女はかまどの守護神ということで家庭内では非常に尊ばれていましたが、神話の中ではあまり活発ではなく、エピソードをほとんど残していません。
ただ非常に美少女であったらしく、イケメン系女たらし(アポローン)と、脳筋系女たらし(ポセイドーン)の両者から情熱的な求婚を受けます。
情熱的な求婚と言えば聞こえはいいように思えますが、実態はセクハラと紙一重でした。
これに怯えてしまった美少女ヘスティアーは、弟ゼウスに願って一生処女でいてもよい、というお墨付きをもらいます。
「一生処女」というのは結婚して得られるさまざまな女の幸せを放棄することでもあるので、ゼウスは代償として家の中央に座す権利と、その家で供せられる犠牲の最初の一番いい部分を得る権利も与えてくれました。
これにより、彼女の本格的な引きこもり生活が始まります。
お姉ちゃんはギリシア神話の地母神正統後継者
引きこもってしまったお姉ちゃんの行動エリアは、ヘラとは被らなくなりました。
しかし、二番目のお姉ちゃんであるデーメーテールのエリアは、ヘラと被ってしまっているのです。
デーメーテールの「デー」は「大地」から来ていると言われています。「メーテール」は英語で言うところのマザーで、つまり「母」です。
強引に日本語訳すると「ザ・地母神」という感じになります。
つまり、大地の豊穣を象徴する女神です。
ヘラも元々は、地母神出身でした。
そのため、守備範囲はデーメーテールと被ってしまいます。
ヘラとデーメーテール、地母神としての格はどちらが上なのか、というと、これはお姉ちゃんのデーメーテールの方です。
ギリシア神話における主要な地母神の系譜は、ガイアから始まりティターンの一人でクロノスの妻であるレーアー(ヘラとデーメーテールの母とされます)へと引き継がれ、さらにデーメーテールに継承されたのです。
ヘラは地母神としてはポスト・ティターン世代の二番手に過ぎません。
主婦の守護神として生きる
ただしヘラは「ゼウスとの結婚」によって神々の女王、家庭とし主婦の守護神という性格が付与され、時代を経るにしたがってそちらが中心になっていきます。
なお、同じ神話を伝えている地域に地母神が何人もいるのには、ちゃんとした理由があります。
地母神は基本的に定着して農耕を行う集団ごとに個別の神が生み出され、信仰されるという性格を持っています。
これらの農耕集団は、遊牧集団などと接触し、その侵略を受けるようになります。
これが複数回繰り返され、集団の統合が進むと、同じ神話体系の中に複数の地母神がいる、という状態になるのです。
この際、地母神は征服民族の奉じる男の神と結婚するか、結婚しないまでも子をもうけるようになるのが通例です。
デーメーテールは正式の結婚をしてはいませんが、ゼウスやポセイドーンとの間に子をもうけています。
ギリシア神話最大の英雄とヘラの複雑な関係

ギリシア神話最大の英雄というと、十人が十人「ヘーラクレース」と言うでしょう。
この英雄は、基本的にはヘラと敵対関係にあります。
なぜ敵対関係なのかというと、ヘーラクレースはヘラの夫ゼウスが浮気で作った子だからです。
なのでヘラはヘーラクレースに対して嫌がらせの限りをつくすのですが、それが逆にヘーラクレースを類稀なる英雄へと育ててしまうことになります。
「ヘーラクレース」は元々「ヘラの栄光」という意味であり、その時点で父ゼウスよりもヘラの方との結びつきが強いことが示唆されているのです。
憎んでいる割にヘラは赤子のヘーラクレースに自分の乳を飲ませていたりもします。
ヘーラクレースの乳を吸う力があまりに強くて乳首が痛くなったため、ヘラはヘーラクレースを放り出し、その瞬間にこぼれた母乳が「天の川(ミルキーウェイ)」になったと言われています。

このエピソードについては「ヘラが憎んでいるヘーラクレースに乳を飲ませるわけはなく、これはゼウスなどの他の神がヘラを騙してヘーラクレースに乳をふくませたのだ」という事情説明がなされますが、恐らくは後付け設定でしょう。
憎んでいるのも事実ですが、離れられない関係であったのもまた事実だと思われます。
母は娘、父は息子
この関係、先に述べた「神様の分裂」の理論できちんと読み解くことができます。
「アマゾン」の項で述べたように、ヘーラクレースは北方の遊牧民と何らかの関係があったのではないか、と思われます。
その起源は、どうもギリシア本土ではなく、北方にあったようなのです。
その本拠地が北方にあり、後にギリシアにやってきた、という点ではヘーラクレースの父ゼウスも同様です。
ゼウスはインド・ヨーロッパ語族で広く信仰されている雷の神の一種で、その起源を辿っていけばインドのインドラ、ロシアのペルーンなどと共通の祖先に行き着きます。
それがはるばるギリシアへと旅をしてきて、オリュンポスの主神の座に収まったのです。
ここまで説明するとある程度おわかりでしょう。
ヘーラクレースは、父であるゼウスと本質的に同じものなのです。
ゼウスは北方からやってきた民族集団の奉じる神であり、ヘーラクレースは同じ民族を率いる英雄としての指導者であった、というわけです。
この英雄と神はカードの裏表のように、不可分の存在でした。
こうした背景を持つが故に、ヘーラクレースは死んだ後神としてオリュンポスへと昇り、ヘラの娘(これも正体はヘラ自身)であるヘーベーを娶ることになったというわけです。
ヘーラクレースに対して課せられた様々な試練は、ヘラがゼウスを自分の夫としてふさわしいかどうかを見極めるためのテストであったのでしょう。
まとめ
いかがでしょう。伝説を深く紐解いていけば、ヘラは決して「嫉妬深いオバサン」ではなく、魅力溢れる萌え女神であった、ということがわかってきます。
ただその真の姿は決してわかりやすい形では表示されず、より好奇心が深く物事を深く突っ込みたい人種、つまり21世紀でいうところの「オタク」でなければわからないようになっているのです。
自分たちの理想の女性に対し、一般からは受け入れられないようなフィルターを被せ、閉じられたコミュニティーの中でだけ崇める、という術を知っていたあたり、古代ギリシア人はかなり「わかっている」人々だったのではないかと思われます。
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