ロマンあふれる神話・伝承を電子書籍で。

「日本の大魔王」こと崇徳天皇について、ゆかりの地「直島」で考えてみた

崇徳上皇像(『天子摂関御影』より)
崇徳上皇像(『天子摂関御影』より)

皆さんは、「大魔王」といえば、何を浮かべますか?

ゾーマ? エスターク? ミルドラース?

……などとやってしまうと本稿のライターの趣味と世代がわかってしまいますが、それはともかく、「魔王」というのが、ちゃんと伝統のある日本語のコトバで、古典文学にも登場することは、ご存知でしょうか?

「怨念のあまり魔王となった」とされる人物が、日本史上にも何人かいるのです。

その中でも最恐の大魔王と呼ばれてきたのが、崇徳(すとく)天皇

れっきとした第75代の天皇でありながら、権力闘争に敗れ、讃岐国(現在の香川県)に流罪となった方です。

ただし、結論を先に述べますと、私はこの崇徳天皇の実像が恐ろしい人物だったようには、とても思えません。

むしろ、穏やかな教養人であり、彼が大魔王扱いになったのは、後世の人々の思い込みのせいだったのではないかと推測しております。

そのことを、崇徳天皇とゆかりのある香川県直島に作られた「地中美術館」の訪問記と一緒に、お話したいと思います!

崇徳天皇とはどんな人物?

崇徳上皇像(『天子摂関御影』より)
崇徳上皇像(『天子摂関御影』より)

平安時代末期に、いわゆる「源氏と平氏の戦い」があったのは、皆様ご存知ですよね?

平清盛や源義経の物語が有名ですが、崇徳天皇は、それより少し前の世代の方です。

既に権力が衰えていた京都の朝廷政治の中で、皇位継承をめぐる「保元の乱」という内乱が発生します。

崇徳天皇は、その時に担ぎ出されたものの、弟の後白河天皇一派に敗れてしまいます。

敗北後は讃岐国に流罪となり、中央の権力闘争にはもはや関われない立場となりました。

しかし特に腐るそぶりもなく、和歌を作ったり、現地の庶民と交流したりしながら、穏やかな日々を送っていたと言われています。

そんな崇徳天皇が、どうして「大魔王」になったのか?

崇徳天皇を本気で怒らせてしまった中央の対応

いろいろなパターンの伝説がありますが、口伝によると、事情は以下のようなもの。

流罪の身で現世をはかなんだ崇徳天皇は、先祖の供養になればと、心静かに、3年がかりで五部大乗経の写経を行います。

五部大乗経写経というのは、大乗仏教の中でも特に有名な五つの経典を連続で写経するということで、崇徳天皇の場合は百九十巻分に相当する分量の写経だったといわれています。

まして写経というのは、一字一句に心をこめて行う修行です。

それだけの量の写経を仕上げたというのは、信心深く、集中力をもって生活していたかの現れであり、一個の偉業とも言えるレベルです。

さて、写経を完成させた、崇徳天皇。

「信心のあらわれとして大部の写経を送るから、京都の近くにこれをぜひ、納めてほしい」という手紙を添えて、それを時の朝廷に送ります。

すると返事として、京都からはきれいな手紙箱がひとつ、届けられました。

このような立派な手紙箱を送ってきた、ということは、箱の中身は当然、色よい返事の手紙であろう!

そう思った崇徳天皇は喜んで箱を開けてみると、中には、せっかく3年かけて作り上げた写経がズタズタに破かれて詰め込まれていました。

その瞬間、崇徳天皇は庭に駆け出し、自らの舌を噛み切って、「日本国の天皇家をこれから徹底的に呪ってくれる!」と誓った、とされています。

崇徳天皇の姿はおそろしい「生き天狗」のようになり、その姿を見ただけで人々を畏怖させる存在になってしまったとのこと。

その後、仇敵である後白河上皇の血筋から、続々と病没者が出るようになり、恐れおののいた朝廷が鎮魂祭を執り行いますが、もはや手遅れ。

一族の不幸はとどまることなく、さらには源平合戦の発生を経て、天皇と貴族の世の中は、武士の世の中へと変わってしまったのでした。

さて、これを聞いて、「たしかに怖いが、庶民にとりつく悪霊ではなく皇家を呪っている怨霊だから、俺には関係ないな」などと思っている方は、甘い!

崇徳天皇の祟りは、日本国そのものを揺るがすような大戦争や大内乱を引き起こして、いつか国体そのものを滅ぼしてやろう、というスケールなのですから!

庶民も無事に済むレベルではないのです。

以降、承久の乱の際も、南北朝の動乱の際も、幕末の戊辰戦争の際も、常に「これは崇徳天皇の呪いではないか」という噂が立ちます。

そのたびに、天皇陛下は必死の鎮魂の儀を執り行って、今日にまで至っているのでした。

いつだって悪いのは生者のほうではないか?と思ったり

でも、ちょっと待ってください。

ことの経緯を読んで、私と同じ感想を持った方も多いのではないでしょうか?

つまり、「せっかく和解の印として送った大部の写経を破いて送り返してくるなんて、昭和の少女マンガの悪役かい!? どう考えても、時の朝廷のほうがイヤな感じだよね?」と。

思い返せば、時の朝廷を仕切っていたのは、源平合戦でも悪役扱いの策謀家、後白河上皇。

陰湿陰険このうえない人というイメージです。

これで崇徳天皇を「おぞましい魔王!」などというのも、なんだか不公平なような。

もっとも、ややこしいことには、「崇徳天皇の写経が拒否られた話」自体、後世の伝説や口伝の中で広まった話です。

崇徳天皇が写経をしたという記録自体も、同時代の記録にはないとのこと。

学者の間でも、どこまでが事実でどこからが虚構なのか、かなり議論が分かれるところです。

実際の崇徳天皇の行動としてわかっているのは、讃岐国に流罪にあった後、いくつかの和歌を残していること。

そしてその和歌をみるかぎりは、恨みや怨念の気配は、あまり感じられないこと。

何よりも、崇徳天皇が流されたルートにあたる、香川県の直島や坂出には、崇徳天皇ゆかりの名所や史跡がたくさん残っており、今日では立派な観光スポットとなっています。

京都では怨霊扱いの人物が流刑先の四国では敬愛されているとは、これはいったい?

ここも学者によって見解の分かれるところですが、やはり私としては、史実の崇徳天皇は、讃岐国で静かに教養人としての余生を過ごした人物だ、という解釈を取りたい。

そうだとすると、そんな人物を怨霊扱いにしたのは後世の人々たちであるということになり、人々の勝手なうわさや解釈のほうが、よっぽど怖い、という話になってきます。

怨霊というのは、けっきょく、生者の都合で作られるものなのかもしれません。

崇徳天皇ゆかりの島は、たまらなく摩訶不思議なアートの島で、オススメ!

日本史を紐解いてみると、印象として受けるのは、「壮大な和解の歴史」だということ。

一度、反逆者として悪評を得た人が、一度は怨霊として恐れられ、やがては「実はいい人だった」という伝説が広まり、和解に至る。

そんなパターンが、多々あります。

怨霊のはずが、受験の守り神になった、菅原道真が典型例ですね。

崇徳天皇の伝説も、いずれはそういう展開になるのかもしれません。

さて、崇徳天皇に興味を持っていただいた方には、ぜひ、オススメしたい観光スポットがあります。

瀬戸内海に浮かぶ島、直島(なおしま)です。

直島
直島の景色

崇徳天皇が流刑に処された際、まずはこの島に立ち寄ってから、四国に配送されたということで、現在の直島にも、崇徳天皇が散歩されたと伝えられる海岸や、崇徳天皇を祀った神社などがあります。

そもそも、直島という名前自体、ここに立ち寄った崇徳天皇が島民の素直さに感動してつけた地名、という言い伝えがあります。

こういう話を聞くだに、やはり、怨霊伝説だけの人、として、終わらせたくない。

この直島ですが、現在では、ベネッセが広大な「地中美術館」を作っており、私もここを訪問したのですが、実に、面白い場所となっています!

島の地下に迷路のような空間をつくり、そこにさまざまなアートオブジェを配置してあります。そこはまるでファンタジー世界のダンジョン!

「大魔王」から連想して「ダンジョン」という比喩を思い浮かべてしまいましたが、一日たっぷり遊べる島として、とことんオススメの観光地になっているのでした。

この記事をシェア

ロマンあふれる神話・伝承を電子書籍で

ゲームや漫画、映画などエンタメ好きにも読んで欲しい編集部厳選の神話・伝承をAmazon kindleで販売中

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です