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ギリシア神話とギリシア人
ギリシア神話は、恐らく世界でもっとも有名な神話の体系です。
この神話を伝えたのはもちろん「ギリシア人」ですが、歴史上彼らはずっと今ギリシアと呼ばれる地に住んでいたわけではありません。
世界史の教科書では、最初にギリシア地域で文明を起こしたのは、地中海に浮かぶクレタ島の住民たちであったと伝えています。
その後彼らはギリシア本土に上陸し、ミュケーナイなどに都市を築きます。
彼らの文明は、クレタ島を統治した伝説の王の名前にちなみ、「ミノア文明」と呼ばれました。
その後、東方からドーリア人と呼ばれる人々の一団がギリシアに到来し、ミノア文明人を征服してしまいます。
ドーリア人は先住民たちの多くを奴隷とし、その上で自分たちが支配する体制を作り上げたのです。
この典型例がスパルタです。
スパルタ人は、絶対的多数を占める被支配階級の奴隷たちが反乱を起こさぬよう、ドーリア人の子孫たちに徹底して武人としての教育を施し、極端な軍事国家を作り上げました。
ペルシアの大軍に対して、スパルタ王レオニダスは自ら300人のスパルタ兵を率いてテルモピュライで迎え撃ちます。
スパルタ人の圧倒的な強さにほれぼれする大作。まだご覧になっていない方はぜひ。

Louvre Museum)
スパルタ以外の地では、もう少しドーリア人と原住民族の関係は対等に近かったようです。
ドーリア人は、自分たちが信じる神ゼウスを、原住民族の信じる神と関連付けることにより、民族の融和をはかりました。
原住民族の信じる神の多くは、豊穣を司る地母神でした。
このため、「民族の融和」は、ゼウスと現地の女神との結婚という形で進行します。
これは多くの地において成功を収めました。
主神ゼウスに「あちこちで愛人をこしらえる浮気性の神」という悪評がつく、という副作用もありましたが。
ギリシア神話は後に文献としてまとめられたものをただ読むだけでも面白いのですが、「ゼウスという東方出身の神を軸にさまざまな土着信仰が融合したもの」であるという前提を知ると、さらに魅力が増していきます。
ガイアの誕生からティターノマキアーまで

ギリシア神話は、もともと各部族において口承で伝えられたものでしたが、歴史時代に入ってからホメーロスやヘシオドスのような詩人によってまとめられました。
このため、それぞれのエピソードにかなり多くの異伝があり、神々の関係やこの世に現れた順番などに違いがあります。
もっとも、これはギリシア神話に限らず、世界中の神話でよく見られる現象ではありますが。
各種あるギリシア神話の世界創生のエピソードの中で、もっとも普及しているのは「最初にカオス(混沌)があった」というものです。
このカオスの中から、大地の女神であるガイアが誕生します。

ガイアは誰の助けも借りずに天空神ウーラノス・原初の海神ポントス・暗黒の神エレボスを産みます。
そして、ウーラノスを夫としてクロノスを筆頭とするティーターンと呼ばれる神々を生み出します。
ガイアがウーラノスを夫とする過程において、愛の神エロースの関与があったともされますが、このエロースはガイアの子とも、ガイアとは別にカオスの中から生まれたとも言われます。
後の文献化された神話においては、エロースはアフロディーテーの息子になりました。
ガイアはティーターンたちを生んだ後、キュクロープスとヘカトンケイルと呼ばれる巨人たちを生み出します。
ティーターンは「巨神」と訳されるように、巨大である以外は基本的に人間と同じ姿形をしていました。
しかしキュクロープスは一つ目であり、ヘカトンケイルは腕百本という異形の姿をしていました。
混沌から生まれた大地の象徴であるガイアは、「何とでも交わって子を産む」という特徴を持っていたので、この後もちょっと目を離すととんでもない怪物を世に送り出したりします。
この最初の「異形の子ら」を見たウーラノスは嫌悪を催し、ヘカトンケイルとキュクロープスを、タルタロスと呼ばれる「奈落」に落としてしまいます。
ガイアは深く悲しみました。
夫への復讐を考えたガイアは、子であるティーターンたちに、ウーラノスを罰するようにと命じました。
ティーターンたちは、乱暴な父を恐れて尻込みしましたが、末子のクロノスのみが、母の願いを聞き届けます。
ある夜、クロノスは大きな鎌を持って、父母の寝所に忍び入ります。
ウーラノスは全裸で、ガイアの上に覆いかぶさって寝ていました。
クロノスは持っていた鎌でウーラノスの男根を切り落とします。

切り落とされた男根は海に落ち、そこに生じた泡からアフロディーテーが生まれたとも言われます(他の多くの伝承では、アフロディーテーはゼウスの娘とされていますが)。

男根を切られたウーラノスはこのことを恥じ、人前に姿を現さなくなります。
このため、クロノスが父の権力を受け継ぎ、神々の王となりました。
さて人前から姿を消したウーラノスですが、最後にクロノスにこんな言葉を残していました。
「お前もまたやがてその子により王座を追われるだろう」。
クロノスはこのことを気にし、妻レアーの産んだ子たちを次々と飲み込んでしまいます。
レアーはこれを悲しみ、最後に生まれた男子だけは助けようとします。
クロノスが生まれた子を丸呑みしようと近づいてきた時、レアーはむつき(産着)に石をくるんで渡しました。
クロノスは気づかずにそれを飲み込み、幼児はクレタ島にかくまわれ、育てられます。
これがゼウスです。

やがて成人したゼウスは、兄弟たちを助けるため、クロノスに嘔吐薬を飲ませます。
クロノスはゼウスの兄弟たちを吐き出し、これを味方につけたゼウスは、クロノスを筆頭とするティーターンたちと戦いを始めます。
なお、ゼウスは兄弟たちの末子でしたが、兄弟たちはクロノスに飲み込まれた時から成長が止まっていたので、吐き出された時は皆幼児でした。
ここで兄弟の年齢と外見の逆転が起こった、と言われています。
ゼウスは姉たちの中で最も美しかったヘーラーに目をつけますが、まだ幼女であったため、彼女をオーケアノスに預け、クロノスとの戦いに臨みます。
オーケアノスはウーラノスとガイアの長男で、ティーターンの一人でしたが、早々に中立を決め込んでいたのです。
ティーターン側では、他にもゼウスの味方になったり、味方にならないまでも好意的な中立を保つものが続出しました。
クロノスの姉妹であるテミスに至っては、ゼウスの妻(二番目)になってしまっています。
脱落者が続出したものの、それでもクロノスは強く、ゼウス側は苦戦を強いられます。
そこでゼウスはガイアに相談します。
ガイアは、「タルタロスに幽閉されているキュクロープスとヘカトンケイルを味方にするとよい」と言います。
そして祖母の言いつけを守ったゼウスは、ティーターンとの戦いに勝利し、クロノスを始めとする、ゼウスに敵対したティーターンを残らずタルタロスに閉じ込めてしまったのです。
この戦いのことを「ティーターノマキアー(タイタンの戦い)」と言います。

戦いに勝利したゼウスは、自分の兄弟や子たちを中心に新しい支配体制を作り出します。
ゼウスはその宮殿をオリュンポス山上においたため、十二柱いたこの神々は「オリュンポス十二神」と呼ばれるようになるのです。
英単語に出てくる「th」の謎
さて、ここから本題です。
学校で英語を初めて学んだ時、「th」の発音に悩んだことはないでしょうか。
かつては多くの中学校用の教科書において、最初に学ぶ英文は「This is a pen.」でした。
この文の最初に出てくるのが「th」だったんですね。
「th」は、二文字合わせて一つの子音を表現しているのですが、どうして一文字にまとめず、二文字に分けているのだろう。
こんなふうに不思議に思った人はいませんか?
英語表記に使われる「th」のルーツは二つあります。
一つは、ルーン文字のþ(ソーン)です。
上に挙げた「This」や、「Brother」「Father」などの単語で使われています。
言語そのものの始まりから存在した、古い単語が多いようです。
古英語で使われていた文字þはいつの間にか使用されなくなり、代わりに「th」が用いられるようになったのです。
もう一つが、今回の主役である、ギリシア文字の「θ」(シータ)を起源に持つものです。
こちらは科学技術・哲学といった、古代の英語話者にはちょっと縁遠かった(失礼!)ような単語が多いですね。
ちょっと乱暴ですが、洗練された、垢抜けた「th」付きの英単語は、ほぼすべてがギリシア語に起源を持つ借用語だと考えられるのです。
ちなみにもともと一文字だったθを二文字に分解したのはローマ人です。
英語国民は、このローマ人が取り込んだギリシア語の「θ」付きの単語を、さらに輸入して使っていることになります。
このWebサイト「Mythpedia」からすれば、もっとも重要なキーワードである「Myth(神話)」がそもそもこのタイプの輸入語なのです。
なお、英語で使われている「th」がギリシア語由来なのかルーン文字由来なのかは、比較的簡単に区別できます。
ルーン文字由来のものは、「This」「Brother」などの例からわかるように発音が濁ります。
ギリシア語由来のものは濁りません。
ゼウスを取り囲むシータたち
ギリシア神話の場合、主神ゼウスを取り囲む女神たちの名に、「θ」が使われていることが多いのです。
しかも、彼女たちのイメージはどことなく似通っています。
その「θ」が名前に使われている女神の筆頭は、アテーナー(Ἀθηνᾶ)でしょう。
言わずと知れたゼウスの子たちの最年長者で、しばしばゼウスの後継者ともみなされている存在です。

アテーナーはゼウスがドーリア人に担がれてギリシアにやってくる前から、ギリシアの地で信仰されていた女神のようです。
その勢力がなかなか強かったため、ドーリア人たちはアテーナーをゼウスの長子と位置づけることにより、土着勢力の取り込みに成功したのだと考えられています。
多くの伝承において、アテーナーはゼウスの最初の妻であったメーティスとの間の子だとされています。
「ゼウスはその優れた子によって神々の玉座を追われるであろう」との予言があったため、長子の出生を恐れたゼウスはメーティスを飲み込んでしまいます。
しかしメーティスはゼウスの体内で子アテーナーを育て、やがてアテーナーは父のこめかみから飛び出して出生した、と伝えられています。

生まれた時から完全武装していたこの女神は、威厳にあふれており、あまり女性らしくありません。
ある伝承によれば、元は男性神だったとか、男性神とペアだったが、後に相棒の属性を取り込んで独立した女神になったとか言われています。
いずれにしろ、「理知的」「堅苦しい」などといったイメージが、アテーナーにはついて回ります。
ちなみにアテーナーの母に当たるメーティスの綴りは「Μῆτις」で、「θ」を含んでいません。
余談ですがギリシア語の母音には長短二種類あり、多くは別の文字を持ちます。
例えば、「オ」と発音する文字は、「ο(オミクローン、ちいさなオの意)」、「Ω(オーメガー、大きなオの意)」の二種です。
「ο」が短母音で「オ」と短く発音し、「Ω」が長母音で「オー」と長く発音します。
「エ」音も「ε(エプシロン)」と「η(エータ)」の二種があります。
「α」は長短で文字が分かれておらず、文字の上に線を引っ張って長母音・短母音の区別をしています。
「ウ」は本来のギリシア語にはなく、「ou」から発達した二重母音に起源を持ち、「υ(ユプシロン)」の文字が当てられます。
ただ、「そういう発音・表記がメジャーだったらしい」というだけの話で、細かい時代や地域によってさらに微妙な差が生じていたようです。
日本人にはこれらの区別がつきにくいので、長短の区別をなくしてしまう表記法が一般的になっています。
だから神々や英雄の名前も「アテナ」「メティス」などとしてしまうことが多いのですが、ここでは一歩原語に近づけて、長母音を伸ばす形で表記してみます。
さて、第二のシータですが、女神テミス「Θέμις」です。
テミスはゼウスの第二の妻なので、アテーナーからすれば義母、もっとはっきり言えば「オヤジの後添え」になります。
直接の親子関係ではない(テミスはゼウスの叔母でメーティスはゼウスの従姉妹に当たるのでまるっきり血縁がないわけではありませんが…)のですが、法と秩序を守護するテミスのイメージは、かなりの部分でアテーナーに被ります。
なお、テミスはローマ神話では女神ユースティティアに相当すると考えられています(後述しますが、ユースティティアはテミスではなくその娘のアストライアーだという説もあります。とある神の属性の一部が独立し、その子として扱われるのはよくある話です)。
ユースティティアは英単語「Justice(正義)」の語源となっているので、テミスがどういう女神であったかは、ここからも想像がつくでしょう。

法科系の大学のキャンパス内には、「正義の女神」という名前でテミス(ユースティティア)の像が数多く建てられています。
このように、ゼウスを取り囲む「シータ」たちは、理知的で秩序を好み、ちょっと固い、という共通のイメージを持っています。
逆に言うと、そういうイメージのない女神は、カナにした時に「ティ」「テ」などの「タ行」の音を含んでいても、原語においては「シータ」表記ではないと考えていいぐらいなのです。
アフロティーテーやアルテミスなども、日本語にしたら「テ」の字を含んでいるのでシータ族のように見えてしまいますが、アフロティーテーは「Ἀφροδίτη」であり、アルテミスは「Ἄρτεμις」であって、どちらもシータ族ではないのです。
実際、アフロティーテーはどう見ても正義や秩序よりは自分の欲望を優先しそうな性格です。
アルテミスも自分の掟には忠実ですが、その「自分の掟」そのものが一般社会のそれとはズレていて客観的に見れば単なるわがままになってしまうタイプです。

ゼウスからちょっと離れたシータ族
プロメーテウスという神がいます。
ティーターンの一人ですが、賢い神であったため、ティーターンとゼウスたちオリュンポスの神々との戦いである「ティターノマキアー」ではオリュンポス側につきました。
敗北したティーターンたちの多くは、タルタロスと呼ばれる奈落に投げ込まれてしまいました。
また、プロメーテウスの兄であったアトラースは、世界の西の果てで天空を背負うというとんでもない罰を与えられてしまいます。
そういう悲惨な状況を回避できたプロメーテウスは、非常に先見性に溢れた神であったと言えるでしょう。
それもそのはず、プロメーテウスの名は、「プロ」(先に)と「メーテウス」(考える)という単語を合成させてできあがっているのです。
わかりやすく言い換えれば「ミスター先見」とでも言ったところでしょうか。
この「プロメーテウス」の「テ」がシータです。
「考える」という単語の先頭についているので、これまで語った「シータにはどことなく知的な雰囲気が漂う」というイメージに合致しています。
ちなみにプロメーテウスには、アトラース以外にも兄弟がいました。
アトラースは長兄で、プロメーテウスは三番目です。
この二人の間にいたのがメノティオスという神でした。
カナで表記すると「テ」を含んでいるのですが、残念ながらシータ族ではありません。
そのためか、考えなしに兄とともにゼウスに盾突き、タルタロスに投げ込まれてしまいました。神話には、それ以外の記述がほとんどありません。
プロメーテウスには、二人の兄の他に一人の弟がいました。
エピメーテウスと言います。名前がプロメーテウスとセットになる感じなので、「ひょっとしてシータ族では?」と思った方もいるでしょう。
その通り。エピメーテウスはシータ族です。ただ、兄と違って「先に」考えるのではなく、「後に(エピ)」考える者というあまり賢くなさそうな名前になってしまっています。
しかし、賢いすぐ上の兄に従ったため、ティターノマキアーを生き残ることができました。
プロメーテウスと人類
ティターノマキアー以後、どうやらプロメーテウスは、その溢れる知性を見込まれ、ゼウスの相談役のような地位に就いたようです。
ゼウス自身は、時に思慮深くもなりますが、全体的に言えば肉体派の神です。
特に美しい女性を見ると本能の命じるままに行動する習性がありますから、知性派を側近においておくというのは、悪くない判断でした。
ティターノマキアーが終了した時、世界には神々とキュクロープスたちとヘカトンケイルたちしかいませんでした。
キュクロープスもヘカトンケイルもウーラノスとガイアの息子ですから、神々の仲間だと言っていいでしょう。
ティターノマキアー終了後、ゼウスは神々とは異なる、神々に似た種族を作ることを思いつき、それをプロメーテウスに命じます。
プロメーテウスは土をこねてゼウスの命じた種族を作り出します。
これが人類だと言われています。

最初の人類は、なぜかみんな男性でした。
プロメーテウスは自分が創造した人類を深く愛していました。
しかしゼウスはそうでもなく、時に人類を迫害する行動に及んだのです。
一説によれば、プロメーテウスが自分の作った人類(複数だったようです)をゼウスに紹介する際、最も美しかった少年を隠していたせいだとされます。
美少年を紹介してもらえなかった腹いせかどうかはわかりませんが、ゼウスは神々と人類との間に明確な線引きを行おうとします。
ゼウスは言いました。「家畜を屠った時、神々と人間との取り分をはっきりさせよう」。
ちょっとわかりにくいですが、簡単に言えば、人間が生きるために家畜を殺した際、神々にその一部を捧げろ、ということです。
ゼウスはそうすることにより人間の取り分を減らし、常に飢えさせてあまり数が増えないようにしようとした、とも言われています。
ここでプロメーテウスは知恵を絞ります。
自分の愛する人類にとって、最も有利になる配分を考えたのです。
彼は一体の牛を解体し、その胃袋に肉と内臓を詰めたものと、骨の周りに脂肪を巻き付けたものを用意します。
そしてゼウスに「好きな方をお取りください」と言ったのです。
肉と内臓の方が、食料としては優れています。
しかしプロメーテウスの加工により、この場では脂肪を巻き付けた骨の方がおいしそうに見えました。
霜降り肉に舌鼓を打つわれわれ日本人なら、この時のゼウスの心境が理解できると思います。
ゼウスは骨を選び、これによって肉と内臓は人間の取り分、と定められました。
プロメーテウスはまんまと神々の王を出し抜いたのです。
一説によれば、ゼウスは実はプロメーテウスの意図を見抜いており、わざと脂肪を巻いた骨を選んだのだ、とも言われています。
こちらの説話では、この選択により、人間は肉と内臓のようにやがては死に、腐って土に帰っていく運命となった、とされています。
ちなみにこの系列の神話は、ギリシアだけでなく世界各地に残されています。
日本でも、「美人だけど線の細いコノハナサクヤヒメと、不美人だけど頑丈なイワナガヒメのどちらを選ぶ?」と言われたニニギノミコトが、コノハナサクヤヒメを選んでしまった、という話が残っています。
この結果ニニギノミコトの子孫(つまり皇室です)は代を経るごとに木の花(コノハナ)のように儚くなり、寿命が神々と比べると徐々に短くなっていったのだそうです。
プロメーテウスと火
家畜の取り分を決めたおかげで、人類はおいしい肉と内臓を食べられるようになりました。
しかしゼウスの一種の呪いにより、人類は神々よりも虚弱になり、寒さに震え、野獣の襲撃に怯えなければならなくなったのです。
プロメーテウスは、この状態から脱するためには火が必要だ、と思いました。
そこでゼウスに「人類に火を与えましょう」と提案します。
ところがゼウスはこれを拒否してしまいます。
「火は神々だけの宝だから」というのがその理由です。
「火を得ると人間は自分たちを神々と同列だと思い、傲慢になるだろう」とも言いました。
それでも人類に火を与えるべきだ。火がなければ人類は死に絶えてしまうだろう。プロメーテウスはこう考えました。
ゼウスが許可してくれないのなら、こっそり火を盗むしかない、とも。
プロメーテウスはオオウイキョウという植物の茎を、鍛冶の神ヘーパイストスの仕事場の炉に差し込み、神々の宝であった火を盗んだ、と言います。
盗んだ元はヘスティアのかまどであったとも、ヘーリオスが駆る太陽の馬車の車輪(当然、燃えています)であったとも言われています。
しかし、どの説話でも、火をつけたのはオオウイキョウの茎であったということは変わりません。
オオウイキョウというのは、日本では生育していないセリ科の草で、ぱっと見はアブラナに似ています。
各種の薬効を持ち、ギリシアでは古くから利用されていました。
神々の宝が盗まれ、自分があまり快く思っていない人類に与えられた、ということを知り、ゼウスは激怒します。
ゼウスはクラトスという男神と、ビアーという女神を呼び出し、プロメーテウスをコーカサスの山に送るようにと命じました。
「クラトス」はカナ表記だとタ行の文字を含むので、「ひょっとするとシータ族では?」と思われますが、シータ族ではありません。
その意味するとことは「権力」です。
「言われて見れば権力には理性も知性も関係薄そうだな」となんとなく納得してしまいませんか?
なお、「ビアー」は「暴力」の意味を持ちます。
さらに余談ですが二人は兄妹で、他にニーケー(勝利)、ゼーロス(熱情)という妹・弟がいます。
実は四神ともティーターンの一族なのですが、兄弟姉妹の母ステュクスがティターノマキアーの際にゼウス側についたため、戦後ゼウスの側近として重用されたのだといいます。
話をプロメーテウスに戻しましょう。
彼はコーカサスの山に鎖で縛り付けられました。

これだけでもかなり酷い罰ですが、ゼウスの怒りは収まりません。
ゼウスは一羽の大鷲を、コーカサスに放ちます。
大鷲は抵抗できないプロメーテウスに襲いかかり、その肝臓を食い破ります。
人間だったら死んでしまいますが、プロメーテウスは神であり不死ですから、夜になって大鷲が去ると傷が癒え、復活してしまいます。
そして朝になるとまた大鷲がやってきて、肝臓を食い破る……この繰り返しになります。
このあたり、北欧神話に登場するロキが、バルドゥルを暗殺した後アース神族に与えられた罰によく似ています。

「先に考える者」だったはずなのに、プロメーテウスは自分のこの悲惨な結末を予知できなかったのでしょうか?
いいえ、彼はちゃんとこのことを予見していました。
同時に、やがて一人の人間の英雄の手によって、自分が解放されるであろうこともしっかり見通していたのです。
その人間の英雄というのは、人間を嫌っていたはずのゼウスが人間の女との間にもうけたヘーラクレースでした。

ヘーラクレースはギガントたちによって滅亡の危機に瀕したオリュンポスを救い、ゼウスの娘を娶って神々の座に引き上げられます。
これによりゼウスはようやく人類を見直し、人類は神々とともに繁栄することとなるのです。
トリックスター
プロメーテウスは神と人間の間に立ち、時々神々を欺いて宝を奪ったり、神々に災厄をもたらします。
彼の場合徹底した人類の味方で、ゼウスを騙すのはそれが人間の利益になるから、という理由があります。
だから我々はプロメーテウスに対してあまり悪印象を持たないのです。
実はプロメーテウスのようなキャラクターは、世界中の神話に登場します。
神話学では、こうしたキャラクターを「トリックスター」と言います。
北欧神話のロキ、日本神話のスサノオノミコト、メソポタミアのイシュタル、アステカのテスカトリポカ、はては中国の孫悟空などもトリックスターの仲間とされます。


トリックスターは必ずしもひとつの神話体系に一人だけ、ということはではありません。
ギリシア神話においては、ヘーパイストスやヘルメース、エリスなどもトリックスターだと言われます。
ヘーパイストスは隙さえあれば不貞を働こうとする妻アフロティーテーをとっちめるために様々な策略を考えます。
彼は鍛冶の神ですから、その際にさまざまなビックリドッキリメカを作り出し、人々の笑いを誘います。
ヘルメースは生まれたばかりの時に異腹の兄アポローンを騙し、商業や泥棒の神とされました。
また数多くの女神や人類の女性をぺてんによって騙し、関係を持ったとされています。
不和の女神エリスは「不和のりんご」をヘーラー・アテーナー・アフロティーテーの三人の間に投げ、トロイア戦争の発端を作りました。

ちなみに彼女はアレースの妹とされます。
つまりそれはゼウスとその正妻ヘーラーの間の娘ということで、オリュンポスの中では屈指の血筋の良さを誇るのですが、なぜか「十二神」に数えられてはいません。
これらギリシア神話に登場するトリックスターは、ヘーパイストスは変わった道具を生み出すことにより、ヘルメースはいけしゃあしゃあと大嘘をつくその度胸により人々に愛されました。
ただ彼らは基本的に「トリック」を使うのは自分のためで、プロメーテウスのように、「人類のため」という大義名分を持ちません。
エリスに至っては争いを生むのは自分のためで、なおかつ大義名分も面白みもありませんから、ギリシアの人々は彼女をほとんど尊びませんでした。
後に残った「後に考えるもの」
プロメーテウスがコーカサスの山に縛られてしまった後、彼の家には弟のエピメーテウスが残されました。
どうやら彼はなりゆきで、兄がいなくなった後の人類の守護者的役割を担わされたようです。
さて人類嫌いのオリュンポスの主・ゼウスですが、彼はプロメーテウスに酷いことをしたのにまだ機嫌を直さず、ネチネチと人類に嫌がらせをしようと考えていました。
「あの人類のやつばらに最も厄介な災いを送り込んでやろう」。
ゼウスはそう思って徹底的に考えます。
その結果思いついたのは「やつらに女をプレゼントしてやろう」というアイディアでした。
常に女が原因で失敗し続けているゼウスらしい発想だと思います。
「どうせやるなら徹底的に」とでも思ったのでしょうか。
ゼウスは息子の鍛冶神ヘーパイストスを呼びつけ、「女を作れ」と命じます。
いえ別に「不倫しろ」と言ったのではありません。文字通りの意味です。
ヘーパイストスが得意とするのは、金属を叩いて武器などを作ることですが、今回彼は泥を用いました。
奇しくもプロメーテウスが使ったのと同じ材料をチョイスしたことになります。
しかし材料が違ってもそこは細工物の達人であるヘーパイストスです。
誰が見ても見惚れるような絶世の美女ができあがりました。
彼女が人類最初の女性となります。
この女に、神々はさまざまな贈り物を与えました。
アテーナーは機織りの技術という至極まっとうな能力を与えました。
ただこれは「人類に災いを」と考えている父ゼウスの意向に沿ったものとは思われません。
理知的なシータ族のアテーナーは、こういうところ忖度(そんたく)できなかったようです。
しかしアフロティーテーとヘルメースは、ゼウスの期待にばっちり応えます。
愛欲の神アフロティーテーは自分の最大の能力である「男を惑わす力」を与えました。
泥棒の神ヘルメースは、「狡猾さ」と「無恥(むち)」とを与えたのです。
かくして様々な贈り物に飾られたこの女性は、「パンドーラー」と名付けられました。
そのものずばり「すべての贈り物」という意味です。
ちなみに「パン」が「すべて」を意味します。
これはそのまま英語にも引き継がれていますね。
最後に神々は「ピトス」と呼ばれるものをパンドーラーに与え、人類の指導者であったエピメーテウスの元に送り込みます。
「ピトス」はもともと壺や甕を意味した語でしたが、近代になってからこのエピソードが文学作品として書き直された際に「箱」とされました。
いずれにしろ、何かを詰めた密封されたもの、ということになります。
そして神々はパンドーラーに「決してこれを開けてはいけない」と言い含めます。どう見ても罠です。
ちなみにプロメーテウスはこのことも予見していたらしく、弟に「ゼウスからの贈り物は決して受け取ってはいけない」と言い含めていました。
しかし、生まれて初めて女神以外の女性(しかも抜群の上玉)を見たエピメーテウスは兄が残した忠告など一瞬で忘れてしまい、パンドーラーを妻にしてしまいます。
エピメーテウスはもともとはティーターンなので、彼がパンドーラーを妻にしても意味がないように思われます。
しかし先に述べたように、この頃の彼は人類の指導者的役割についていましたから、「人類に災厄を」というゼウスの陰険な企みは、この結婚により次のステージに進むことになったのです。
ゼウスはパンドーラーに「ピトスを開けてはならない」と言っただけではなく、エピメーテウスにも「ピトスを開けるな」と命じていたようです。
パンドーラーはエピメーテウスと暮らすようになるのとほぼ同時に、ピトスの中身を見たくてたまらなくなりました。
しかしエピメーテウスが律儀にゼウスとの約束を守り、妻を押し留めていたのです。
こうした方が確実に封印が解かれるであろうことを、ゼウスはよく理解していたものと思われます。
神々の王のくせになんて悪どいのでしょうか。
ある時エピメーテウスは所要があり外出することになります。
彼は愚直にゼウスとの約束を守ろうとし、パンドーラーに「決してピトスを開けてはいけないよ」と言ってから出かけたのです。
困ったことにこれが決定打になってしまいました。
人は自分で「してはいけない」と決めた掟は比較的守るものです。
「いついつから何々をしよう」と決めたことは守りません。
たいていの場合「まだ間に合うから明日からやろう」になります。
逆に、他人と一緒に「いついつから何々しよう」という約束をした場合、比較的よく守ります。
しかし、他人から「してはいけない」と言われた場合、かなりの確率でそれを破ってしまうことになります。
というわけでパンドーラー。
エピメーテウスのいいつけなど、「なにそれおいしいの?」状態です。
夫の姿が見えなくなると、速攻でピトスの蓋を開けてしまいました。

ここからの展開はよく知られています。
実はピトスの中にはありとあらゆる災厄が詰められていました。
それは疫病・悲嘆・欠乏・犯罪などでした。
これらはどうやら単なる概念だけではなく、それを司る神の姿を取っていたようです。
いくつかの「災厄」は不和の女神エリスや夜の女神ニュクスの子であったと言います。
先に述べたようにエリスはアレースの妹で、ゼウスとヘーラーの娘です。
その子ということはゼウスから見ると嫡孫に当たります。
そんな高貴な神を壺の中に閉じ込めてしまうとは、とんでもないおじいさんです。
もっともゼウスはすでに妊娠中の最初の妻メーティスを飲み込んでますし、その父のクロノスに至ってはゼウスの兄弟姉妹を生まれた途端に飲み込んでいたりします。
子孫に対してこの程度のことをするのは、屁とも思わなかったのかも知れません。
世に伝えられる「パンドラの箱」のストーリーだと、「箱」ということにされたピトスの中に「希望」のみが残り、これにより人間はどんな災厄に見舞われても希望を抱いて生きていくことができるようになったのだ、という展開になります。
しかしより古いギリシアの伝承によれば、必ずしもそういう展開になったとは言えなさそうなのです。
ピトスの中に最後まで残っていたのは「エルピス」というものでした。
これは英語の「Hope(希望)」の意味も含みますが、本来はもっと様々な意味を持つ言葉でした。
どちらかと言うと「予兆」や「期待」といった意味の方がメインだったとも言います。
「予兆」だと「悪いことを先に知ってしまうこと」になります。
「先に知ればそれへの対策も立てられるだろう」と考えれば、「災厄」にはならないように思われます。
しかし、「予兆」が決定された不幸をあらかじめ知ることだとした場合、知ることにより苦しみの期間が延びてしまうことになります。
「希望」説だときれいにオチがついた感じになり、読後感もすっきりとしたものになりますが、そうでない場合は何かもやもやっとしたものが残ります。
ですが古代の人々は、読後感がすっきりとするお話を作ろうとしていたわけではないので、「エルピス」もまた災厄の一種であった可能性がやや高いようです。
だいたい人間に意地悪する気満々なゼウスが周到な罠を仕掛けて送り込んだものです。
人類にとって有用なものが入っているわけないじゃないか、と考えるのが自然と言えば自然かも知れません。
さらに深読みするのなら、「エルピス」は変更可能な未来に対する予兆であり、プロメーテウスのような賢人(神ですが)ならば適切な対策を立てることもできるが、エピメーテウスのような愚人の場合そうはならず、呆然と災厄がやって来るのを待つのみなのだ、ということを伝えようとしたのかと解釈することもできるでしょう。
これだと、他の災厄を仕込んだのはゼウスだが、それを見越したプロメーテウスが密かに何らかの手段を使って「エルピス」も入れておいたのだ、という「IF」ストーリーも作れるかも知れません。
黄金時代と銀の時代
ギリシア神話の人類史は、いくつかの時代に区切られると言います。
最初の時代は「黄金時代」と呼ばれます。
その頃人類はみんな黄金の聖衣をまとって……いたわけではありません。
人々は不死ではなかったが長寿で、平和を謳歌していたのだとされます。
食料は豊かで飢えることはなく、気候は常春で衣類の心配もなく、野獣などはいないので住処を作る必要もなく、好きなところで寝られたのだそうです。
これはクロノスが支配していた時のことだ、と言いますが、これだとティターノマキアーの後にプロメーテウスが人類を作った、という話と矛盾してしまいます。
この手の矛盾は神話にはよくあることですが、ティターノマキアでゼウスが世界の覇権を握った際に、「クロノス時代の残滓(ざんし)を精算する!」と言い出して黄金時代の人類を滅ぼした、として辻褄を合わせる神話伝承者もいたようです。
黄金時代が終わると、白銀時代がやってきます。
これもまた後にゼウスにより滅ぼされ、青銅時代がやってきます。
さらにその後は英雄の時代になり、英雄の時代が終わると(転機はトロイア戦争後でしょうか)、現代までつながる最悪の「鉄の時代」になるのだそうです。
先に述べたように、プロメーテウスが作った人類の時代が、上記の区分のどれに相当するかははっきりはわかりません。
しかし、プロメーテウスの人類は白銀の時代の人類であり、パンドーラーがピトスを開けたことにより、青銅の時代に移っていったのだ、とすれば比較的矛盾は出なさそうです。
黄金の時代の人類は、神々に並ぶほどの不老長寿だったということなので、人口が減ることはほとんどなく、増やす必要もなかったと思われます。
だから「全員男」でも問題はなかったのでしょう。
プロメーテウスによって白銀時代の人類が作られた頃も、黄金時代ほどではありませんが、環境は人類の生存に適していました。
なのでこの時代も減ったり増えたり、とかはほぼ考えなくてもよかったと思われます。
しかしパンドーラーがピトスを開けてしまった後は、世界を災厄が覆うようになります。
人類はこれまでの時代とは打って変わってバタバタと死ぬようになりました。
滅亡しないためにはなんとかして増やす方法を考えなければなりません。
何しろ、泥から自分たちを作ってくれたプロメーテウスはコーカサスの山に戒められ、追加の人間を補充するどころの話ではありません。
というわけで、ここに至り初めてギリシア神話の人類は性交を試みることになります。
男女が性交を行い増える、というのは、それまでは神々独自の繁殖方法であった、と解釈できます。
人類は神から与えられた災厄により死の運命から逃れられなくなったが、同時に男女が子を生み育てるようになることで、神に一歩近づいたのだ、と言えるかも知れません。
ギリシアの神話伝承者がそう言ったわけではありませんが、結構含蓄に富む話だと思います。
パンドーラーは人類最初の女ですから、人類として最初に出産を経験した女性ということになります。
夫となったエピメーテウスは、粗忽者ですがティーターン、つまり神です。
このことも先ほどの「性交を知ることにより人類は神に近づいた」との仮説を裏打ちしているように思われます。
ギリシア神話の「大洪水」

パンドーラーとエピメーテウスの間には娘が生まれ、ピュラーと名付けられました。
彼女は成長すると、「人類で最も賢い男」デウカリオーンの妻となります。
実はこのデウカリオーン、プロメーテウスの息子とされます。
プロメーテウスもエピメーテウス同様ティーターンですから、デウカリオーンは神の子です。
しかも、デウカリオンが誕生した時期はまだパンドーラーは作られていませんから、その母はやはり神であったと考えざるを得ません。
神と神との間に生まれたものがなぜ「人類で最も賢い男」になるのか、ちょっとわかりません。
デウカリオーンの母とされる女神の名もいくつか残されていますが、その誰もがデウカリオーンの母、あるいはプロメーテウスの妻であったという以上の伝承を持っていませんでした。
ひょっとすると、デウカリオーンはプロメーテウスと女神との間の子ではなく、プロメーテウスが泥をこねて作った「息子」だったのかも知れません。
なお、ストーリーによってはデウカリオーンはプロメーテウスとパンドーラーの子、となっていることもあり、この場合かなり設定上の矛盾が深まることになってしまいます。
さて以前から人類をよく思っていなかったゼウスですが、ある人類の集団とトラブルを起こします。
この集団はゼウスを信仰する教団だったのですが、ゼウスを熱狂的に信じるあまりか、生贄として家畜ではなく人間の男を捧げるようになってしまったのです。
「いくらなんでもそれは…」と思ったゼウスは人間に姿を変え、教団を訪れます。
教団の人々はゼウスの正体を知らないままに歓待し(根は悪人ではないようです)、臓物入りのスープをふるまいます。
しかし、その臓物の一部は家畜のものではなく、教団に所属する美少年のものだったのです。
このことを知ったゼウスは激怒し、美少年を蘇生させるとともに、教団の他のメンバーを皆殺しにしてしまいました。
よほどムカついたのでしょう。
ゼウス神、人類は嫌いですが美少年は大好きですから。
オリュンポスに帰ってからも、ゼウスの怒りは収まりません。
「ああいう気持ちの悪いことをする人類など滅ぼしてしまおう」。
ちょうどその頃、これまでずっと地上に住んでいた法の女神テミス(ゼウスの前妻)とその娘、つまりゼウスの子であるアストライアー(ローマ神話のユースティティアに相当)がオリュンポスに戻ってきました。
これは地上から「法と正義」が失われたことを意味します。
ゼウスは決意しました。
さて人類を滅ぼすと決めたはいいが、どうやってやろう。
ゼウスは考えた後、自分の得意技を使うことにしました。
ゼウスは雷神です。
ですから、雷と暴風と大雨を使い、地上に大洪水を起こして人類を一気に洗い流してしまおうとしたのです。
もちろん兄の海神ポセイドーンの協力を得て、大津波を引き起こすことも忘れてはいません。
こういうところはかなり周到な性格をしています。
ここで話はまたデウカリオーンに戻ります。
彼はこうなることを父プロメーテウスからあらかじめ伝えられていました。
いよいよその時がやってきたか、と思った彼は、方舟(はこぶね)を一艘建造し、妻ピュラーとともに乗りこみます。
方舟に乗って洪水を避けた、というのは旧約聖書のノアの話と同じです。
恐らく元となったエピソードは同一であったと思われます。
人類が文明を知る少し前、地球は氷河時代を脱し温暖化の時代を迎えました。
その際各地にあった氷河が溶け、また降水量が増えて全地球的規模で洪水が多発したようなのです。
実をいうと、人類の文明はこれらの洪水を治めるところから始まっています。
デウカリオーンの話とノアの話とが微妙に違うのは、デウカリオーンの方舟には各種動物一つがいずつ乗せられていた、という記述がない、という点においてです。
洪水発生後デウカリオーンの方舟が波間を漂い、数日後に高山に漂着した、というあたりは同一です。
ノアの方舟はアララト山にたどり着きましたが、デウカリオーンの船はパルナッソス山に漂着しました。
デウカリオーンの舅(しゅうと)と姑(しゅうとめ)にあたるエピメーテウスとパンドーラーが、この方舟に乗っていたかどうかは定かではありません。
エピメーテウスは神で、パンドーラーは神の妻でオリュンポス生まれですから、テミスがオリュンポスに引き上げたのと同じ頃に避難したのかも知れません。
いずれにしろ、この夫婦は大洪水で死んだとは伝えられていません。
その後人類世界でこれといった活動記録を残していないので、天界に引き上げたと考える方が自然かと思います。
ゼウスの当初の計画では人類は皆殺しのはずでしたが、「最も賢い男」とその妻が生き残ったので、考えを改めました。
テミスが(そして恐らくアストライアーも)地上に戻ったということも影響したのかも知れません。
テミスの帰還により、地上に再び法と秩序が復活したのです。
テミスからすれば別れた亭主(ゼウス)の新しい嫁さん(ヘーラー)と一緒に暮らすのがいやだったから戻っただけ、という可能性も否定できませんが。
いずれにせよゼウスはデウカリオーンとピュラーの地上での生存を認めました。
それだけはなく、大洪水を生き抜いた知恵に対する褒美として「望みをひとつだけ叶える」と言い出したのです。
まるでどっかの龍のようです。
デウカリオーンは待ってましたとばかりに、「人類を作らせてください」と頼みます。
ゼウスはこれを認めましたが、素直に願いを聞くのは業腹だったのでしょうか。
「後ろ向きにお前たちの母の骨を投げよ」と謎をかけました。どこまでも意地悪ですね。
しかしデウカリオーンはこの謎をあっさり解いてしまいます。
「母」とは「大地」であり、その「骨」とはつまり「石」だと。
彼は妻とともに大地に向かって後ろ向きに石を投げます。
デウカリオーンが投げた石は男になり、ピュラーが投げた石は女になりました。
そしてデウカリオーンとピュラーの間に生まれた子ヘレーンをリーダーとし、ギリシア人の集団が発生したのだ、ということになります。
古代ギリシア人は、自分たちを「ヘレネス」、つまり「ヘレーンの子孫」と呼んでいました。
プロメーテウスの解放
さてデウカリオーンは「人類で最も賢い男」でしたが人間ですから、やがて寿命を迎えハーデスの治める冥府へと向かうことになります。
その妻ピュラーも同様です。
その子も、またさらにその子も同様に生きてやがて死に、人類は世代を重ねます。
たまに抜群の美女が生まれると、ゼウスがふらふらとオリュンポスから地上に降り、神の種をばら撒いて帰っていく(そして浮気がバレて妻ヘーラーに責められる)、ということが何度が繰り返されました。
そして、デウカリオーンの子孫に、幾度か神の血を注ぎ込まれた一族のひとりとして、ヘーラクレースが生を受けるのです。
ヘーラクレースは、先祖ペルセウスがゼウスの子として生まれており、自分自身もゼウスを父としているので、かなり神の血が濃くなっていますが、少なくともその地上での生涯においては「人間」だとされています。
ヘーラクレースはゼウスには愛されましたが、ゼウスの正妻であるヘーラーには憎まれました。
ゼウスはヘーラクレースに不死を与えようとして、ヘーラーを欺いてその乳をヘーラクレースに与えようとしたという事件を起こします。
この時ヘーラーは、ヘーラクレースが乳を吸う力があまりに強く痛みを感じたので気づいたと言われていますが、その痛みの恨みも重なったのかも知れません。

このヘーラーの恨みと、偶発的な事件とが重なって、ヘーラクレースは苦難の人生を歩み、十二の難題を押し付けられることになります。
そのすべてを果たした後、彼は「十二の功業を挙げた英雄」と讃えられるようになるのですが。
さて、その難題のひとつとして、「ヘスペリデスのりんごを手に入れること」というものがありました。
ヘスペリデスはアトラースの娘たちで、ヘーラーの持ち物である黄金のりんごの木を管理していました。
ヘーラークレースに課せられたのは「このりんごを取って(盗って)くること」でした。
ヘスペリデスの管理するりんご園は、この世の果にあると伝えられているのみで、その具体的な場所はわかりません。
そこでヘーラクレースは、類まれなる智者であり、なおかつ人類の永遠の味方であるプロメーテウスに相談しに行くことにします。
プロメーテウスは世界の東の果てコーカサスにいる、ということを彼は知っていました。
後になってわかるのですが、ヘスペリデスのりんご園は、その父アトラースが天を支えているこの世の西の果てにありました。

現在アフリカの北西端にある山々に「アトラス山脈」という名がつけられています。
アトラスの勤務地も、ヘスペリデスの仕事場も、このあたりにあったのでしょう。
ヘーラクレースがこの世の東の果てに詳しかったのに、西の果てについては疎かったのはなぜでしょうか。
実はヘーラクレースはもともと黒海沿岸の遊牧民たちの間で言い伝えられていた英雄で、マケドニアを経て徐々にギリシア本土に浸透していったらしいのです。
こういう過去があるのなら、その知識が東に偏っていて西については詳しくないのも納得できます。
ヘーラクレースがコーカサスにたどり着くと、例の大鷲が襲ってきました。
ですが、ヘーラクレースはまったく恐れず、愛用の弓で大鷲を射殺してしまいます。
ヘーラクレースの得意武器というと、一般的なイメージでは「棍棒」になりますが、実は彼はかなりの弓の達人だったのです。
バーサーカーではなくアーチャーこそが真の姿だった、ということですね。
ヘーラクレースは大鷲を退治した後、プロメーテウスを縛っていた鎖を断ち切り、彼を解放します。

解放されたことを知ってもゼウスはこれといった対策を立ててないようなので、「これで刑期終わり」と考えたのかも知れません。
いずれにしろギリシア神話におけるプロメーテウスの役割はこれで終わり、後は神話から姿を消しています。
ギリシア神話におけるプロメーテウスの役割というのは、人類と神々との関係の調整役でした。
そして彼はその役割を「シータ族」特有の思慮深さをフルに発揮して立派に果たしたのです。
ゼウスとの知恵比べにおいては、時折苦杯を舐めさせられたこともありましたが、最終的には勝利したと言っていいでしょう。
なにせ、彼が何よりも愛した人類は、ゼウスと和解して地上で繁栄を謳歌することになったのですから。
プロメーテウスを解放した後、ヘーラクレースは東の果てから西の果てに移動し、まずアトラースに会ってヘスペリデスの園の場所を尋ねます。
アトラースは弟がヘーラクレースの手によって解放されたということをどこからか聞いていたのでしょうか。
「俺もこいつを使って自由の身になろう」と考えたようです。
アトラースはヘーラクレースにヘスペリデスの園の場所を教えず、ちょっと代わりに天を支えていてくれれば、自分がりんごを持ってきてやろう、と提案します。
もちろん、りんごを手に入れた後はヘーラクレースを放置してとんずらを決め込むつもりです。
ヘーラクレースはこの魂胆を見破りましたが、アトラースがどうしても自分が取りに行くと言ってききませんから、やむなくアトラースの肩から天を譲り受けます。
アトラースは狂喜し、そのまま逃げてしまうかと思われました。
しかししばらくすると律儀にりんごを取ってきて、ヘーラクレースの目前に「ほら、りんごだ」と差し出します。
ヘーラクレースは天をアトラースに返そうとしますが、ここでアトラースは「このりんごを俺が発注者のところに届けてやろう」と言い出します。
「やっぱり逃げるつもりだなこのヤロー」と、ヘーラクレースは心中で舌打ちしましたが、表情には出しません。
そして「そうか、なら割と長期間天を支えていなければならないな。では最も楽に担げる方法を教えてくれないか」とアトラースに言いました。
ここでアトラースはうかつにも「そうかそうか。ではこうやって担ぐといいぞ」とヘーラクレースにお手本を見せようとしたのです。
ヘーラクレースはこの隙を逃さず、天をアトラースに預けてしまうと、りんごを持ってダッシュで逃走します。
「返せ戻せ卑怯者ペテン師」とアトラースは罵りますが、ヘーラクレースは涼しい顔で「やっぱり天を担ぐのはあんたの方がサマになる。りんごは俺が届けるよ。人もティーターンも自分の得意なことをやるのが一番だ」という捨て台詞を残します。
ひょっとしたらこのあたりも、プロメーテウスに「アトラースはこうするだろうから、お前さんはこう返せ」とアドバイスを受けたのかも知れません。
何しろプロメーテウスはティーターンよりもオリュンポス神族よりも人間が好きなのですから。
なお、アトラースについてはヘーラクレースの先祖であるペルセウスにメドゥーサの首を突きつけられ、石にされた(つまり、本物のアトラス山脈になった)という話も伝わっています。
これだと、ヘスペリデスの話そのものが成り立たなくなってしまいますので、ここでは「そういう話もある」とだけ紹介しておきます。
「ラピュタ」の「シータ」と「シータ族」
この文章のテーマとなっている「シータ族」というのは、ギリシア語の単語や、神名で思慮深さを意味するものによく「シータ」が使われているからという理由で本文筆者が勝手に名付けたものです。
実際に神話学においてそういう述語が存在するわけではありません。
ただ、「偶然の一致」では済まされない共通項があることは、ご理解いただけるかと思います。
さて、一般に「シータ」と言った場合、多くの人が連想するのは「天空の城ラピュタ」のヒロインでしょう。
ごく一部の変わり者は、三角関数を連想するかも知れませんが。
この文章を読んでこられた方の中には、ひょっとすると「ラピュタのシータも関係あるのかも?」と思ったのではないでしょうか。
作中でのシータは、直情径行の熱血漢である主人公パズーとの対比で、思慮深く落ち着いた性格のように描かれています。
これは「シータ族」に通じるものではなかろうか、と。
実は筆者もそう思って、いろいろと調べてみました。
ですが、こちらの「シータ」については「リュシータ」という本名を縮めて愛称のようにしたものである、とする以上の記述を発見することができませんでした。
フルネームの「リュシータ・トエル・ウル・ラピュタ」の中にもギリシア語起源であろうと思われる部分はありません(敵役のムスカの本名の中にはあるようですが…)。
綴りも「タ」に相当する部分は「ta」であって「tha」ではないのです。
残念ですが、リュシータ姫とギリシア神話に登場する「シータ族」は無関係であるようです。
しかし、「シータ(θ)」が英単語中では「th」と表記され、発音の際に濁らない「th」を含む単語はほとんどすべてギリシア語起源だ、ということは厳然とした事実です。
本来単一の子音だったものが、二つの文字で表記されているのは、それが英語表記に使われていたアルファベットには本来存在しない文字であったからです。
このような事実を知れば、英語を勉強する上でちょっとした助けになると思います。
現代の英語は、ゲルマン系の一方言に、フランスを経由して入ったラテン語起源の語彙が重ねられて成立した言語です。
ラテン語はかなりの語彙をギリシア語から輸入しているので、現代英語の中にも、かなりのギリシア語が眠っていることになります。
それらをひとつひとつ解きほぐしていけば、神話の中で使われている細かい単語のニュアンスがわかるようになり、古代人の考え方が理解できるようになることでしょう。
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