【Fate/FGO元ネタ解説】柴田勝家:生涯を織田家に捧げた忠臣

柴田勝家像
柴田勝家像(原典

ゲーム「Fate/Grand Order」の登場人物紹介、今回は「織田信長」の関連人物紹介の4回目として「柴田勝家」のお話です。

前回の明智光秀と同じく現在サーヴァント(仲間キャラクター)になっている人物ではないですが、2019年初夏のイベントで登場し、信長・信勝兄弟や茶々と印象的なやりとりがありました。

イベント中で信長に対する並みならない忠誠心を見せた姿の通り、勝家は人生のほとんどを信長と織田家に捧げた人物です。

そんな彼の歩みを順に追っていきましょう。

「稲生の戦い」――忠臣勝家の最初で最後の反乱

柴田勝家像
柴田勝家像(原典

柴田勝家の出自ははっきりしていませんが、生年はおよそ1520年代の中ごろ、織田信長の生まれる以前からその父信秀に仕えていた、代々織田家の家臣である家系の出だったとされています。

信長の最も古い臣下の一人であり、その死後まで忠誠を貫いた忠臣として知られる人物ですが、一番最初、信長が織田家を継いですぐのころはそうではありませんでした。

若い頃の信長は破天荒で型破りな行動が目立ち、「大うつけ(大馬鹿者)」という通り名まで貰っていました。

そんな信長の姿に反発を持ち、織田家臣下の中で「信長より弟の信勝の方が当主にふさわしいのではないか?」という派閥が生まれ、兄弟間に亀裂が入ります。

この兄弟の対立が激化した末に1566年「稲生の戦い」という戦が起きたというのは、「織田信長」の記事で触れた通りです。

この時期まで、勝家は信長でなく信勝の下についていました。

彼は義理堅く生真面目な性格であり、その分信長の素行が目に余る所もあったのでしょう。

兄弟間の対立が決定的になるまでの間は信長の指揮のもとで働くこともありましたが、本格的に信勝が反旗をひるがえしたこの「稲生の戦い」では、信勝について信長の敵となります。

転機はこの戦いで信長に負けた後の事です。

戦により信長の力を見せつけられ、更に相手を滅ぼすことなく助命するという信長の器を見た信勝側勢力。

しかし当の信勝は敗れた事を認めず、再び兄に取って代わる為に画策を続けます。

またこの頃信勝は自分が気に入っていた新参者の臣下を贔屓し、勝家ら古くから仕える臣下をないがしろにするなど勝手な行動もありました。

当初信勝の方を信頼していた家臣たちも、そんな信長と信勝の姿を見て、次第に信勝から心離れていきます。

勝家も「やはり当主は信長が相応しい」と腹を決めたのでしょう。

その後信勝が再び謀反をたくらんだ際に勝家がそれを信長に密告し、それを受けた信長が信勝を暗殺する形でお家争いは集結しました。

一時は信長と戦まで起こした信勝の家臣らでしたが、信長は彼らを再び織田家の臣下として自分のもとに招き入れます。

ここから、信長の忠臣として生涯を尽くす勝家の人生が始まったのでした。

信長臣下としての勝家の功績

太平記英勇伝十三:柴田修理進勝家
太平記英勇伝十三:柴田修理進勝家(原典

信長のもとについた勝家ですが、彼が信長の家臣として頭角を現し始めるのはもう数年を経た後、「桶狭間の戦い」をはじめとする信長の人生序盤の戦いが終わった頃となります。

一度は信勝について信長にたてついた身、という立場から、実直な性格的にあまり表立った事をするのははばかられたのかもしれません。

また、元信勝の家臣として、彼の遺した子供である「津田信澄(のぶずみ)」らの養育を任されており、こちらに注力していたとも言われています。

信澄にとって信長は実父の仇になりますが、勝家の教育の成果もあってか、長じてからは信長の配下の一人として働きました。

勝家が再び本格的に戦場で活躍しはじめるのは1568年頃。

信長の上洛戦、つまり京都にある幕府のもとへ赴くためのルートを確保するための戦いでした。

ここより後の彼は、信長の重臣の一人として多くの戦で武功をあげていきます。

浅井氏・朝倉氏の連合勢力と戦った「姉川の戦い」や、比叡山の焼き討ち、事実上室町幕府を滅ぼした「槙島城の戦い」などを始め、信長にとって節目となる戦いには度々重用され、功績を重ねました。

戦場においての勝家は戦上手で勇敢な武将として知られていました。

その強さから「鬼柴田」、籠城戦で水が尽きかけた時、敢えて水がめを割り敵に余裕があるようにみせかけたという逸話から「瓶割り柴田」など、多くの異名を持っています。

また戦場において突進力では右に出るものがいないという事から、掛け声をとって「かかれ柴田」という呼び名もありました。

FGOのイベントで登場した際、ひたすら「かかれ」という言葉を繰り返していたのは、この「かかれ柴田」の名にかけたものでしょう。

こうして勝家が築いてきた戦績の中でも、特に重要だったのは1575年の「越前一向一揆」。

一向一揆とは、信長と対立関係にあった本願寺が各地の人々と結託して起こしていた戦いの事です。

勝家は越前国(現在の北陸の一部)で起きていたこれを収め、その実績から越前国に49万石に及ぶ広大な領土と北ノ庄城を与えられました。

彼の誠実な性格は領主としても発揮され、領民からも慕われていたそうです。

その後も勝家は近隣地方で長らく起きていた「加賀国一向一揆」の本拠地を落として加賀国を平定、更に越中など近隣の土地にも領地を延ばしました。

信長にとって、北陸の憂いを払うのに大きく貢献した勝家。

この頃彼と同様織田家の重臣であった人物「佐久間信盛」が失脚したこともあり、勝家は織田家髄一の家臣、筆頭家老となっていきます。

「清須会議」――信長の死により混迷する織田勢力

数々の功績を積み上げ、織田家の家臣として最高位の存在となった勝家。

しかし明智光秀が1582年に突如起こした謀反「本能寺の変」により事態は激変します。

信長とその息子であり現当主である信忠の二人が亡くなる事となったこの事件の後、今後の織田家にまつわる問題解決のため、勝家は織田家の重臣を集めて「清須会議」と呼ばれる会合を開きます。

特に問題であったのは空席となってしまった織田家当主を誰が継ぐかという事。

勝家の他、「羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)」「丹羽長秀」「池田恒興(つねおき)」の3人によりこの決議は行われました。

当初織田家の後継者には、信長の次男・信雄(のぶかつ)と三男・信孝の二人が候補にいましたが、大方三男の信孝が継ぐものと目されていました。

そんな中で、秀吉が三法師(後の織田秀信)を後継者として提案します。

この人物、現当主だった信忠の息子という正当な血筋ではあるものの、当時わずか3歳。

この子供を主君に立てる事で自分が後ろ盾として権威を得ようという魂胆があるのは明白です。

しかし秀吉は光秀を討ち信長の仇を討ったという功績から、この会議で大きな発言権がありました。

他の二人も光秀討伐時に秀吉の元についていたという関係もあり、秀吉の肩を持ちその案に賛同します。

勝家一人でそれを覆す事は出来ず、結局の所三法師を後継ぎとするという案は通ってしまいました。

秀吉自身が三法師の後見人になった訳ではないものの、秀吉は勝家らと共に三法師の後見人を支える、主君のおつきという立場を手に入れます。

これが秀吉が信長に取って代わる道の第一歩であると同時に、勝家の筆頭家臣としての立場がゆらぎはじめる最初のきっかけでした。

「賤ヶ岳の戦い」――秀吉に敗れ、妻と共に遂げた最期

柴田修理進勝家と小谷の方
柴田修理進勝家と小谷の方(お市の方)(喜多川歌麿画、原典

武家に生まれ、長らく織田家の家臣として堅実に仕えてきた勝家に対し、平民の生まれから成りあがってきた野心家の秀吉。

以前から折が悪かった二人でしたが、信長という共通の主君がいなくなり、秀吉が本格的に織田家勢力の乗っ取りを企て始めた事から、その亀裂は更に深まっていきます。

人心を掴む事や根回しの上手だった秀吉は、その後も様々な画策や交渉によって味方を増やし、徐々に自身を「信長の後継者」と印象づけていきました。

勝家もそれに対抗すべく多方に助力を求めますが、秀吉ほどは上手く行きません。

やがて秀吉と織田家のバランスは逆転し、秀吉が実権を持つ大勢力と、織田信孝を掲げる勝家ら織田家残存勢力という形になった頃。

1583年冬に秀吉が勝家の領地に襲撃をかけ、二者間の最後の勝負となる「賤ヶ岳の戦い」が起こりました。

この戦いは寒い時期の北陸という地の利の悪さ、また勝家側から「前田利家」という武将が戦線離脱してしまったなどの不利が重なった事もあり、最終的に勝家らの敗北で終わりを迎えました。

織田家を支持する最後の勢力を倒した秀吉は、ここから本格的に信長に代わる天下人となっていきます。

戦に敗れた勝家は、自身の本拠地である北之城において、妻と共に自害して最期を迎えました。

彼の妻は「茶々」の記事でも触れましたように、茶々の母であり信長の実妹である「お市の方」。

前夫・浅井長政の死後独り身であったお市は、清須会議の時期に娘を連れて勝家と再婚しました。

結婚の勧めは秀吉からとも、織田信孝からとも言われていますが、いずれにしても政治色の否めないものです。

しかしお市自ら夫と共に自決する道を選んだ事、二人の辞世の句には「ほととぎす」という同じ言葉がうたい込まれ対の句となっているなど、夫婦であった時間はわずかでありながら確かな絆があった事が感じ取れます。

あるいは、勝家にとって亡き主君信長の妹であるお市は、妻であると同時に自分の妹同然に大切な存在だったのかもしれません。

一人の君主に身を捧げた忠臣

戦国時代は様々な人々がそれぞれの野心を抱え、ぶつかりあったり、手を結んだり、それを覆して裏切ったりといった明日も知れない戦いにまみれた時代でした。

そんな時勢の中、信長亡き後も織田家の存続を第一に考え、秀吉の策謀に最期まで抵抗を続けていた勝家の忠誠心は相当のものと言えるでしょう。

その忠義に厚く真面目な性格はFateの中でも、一時は勝家について信長にたてついた事、お市や茶々ら妻子を守り切れず死んだ事をずっと悔やんでいたという心情描写に現れていました。

勝家がいつかプレイヤーの手元に呼べる形で実装された時には、他の織田家の面々と仲睦まじく過ごす姿を見てみたいものです。

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