ザグレウス――ギリシャ神話の中でどちらかといえばマイナーなキャラクターだった彼を一躍有名にしたのは、世界中から称賛が集まったゲーム「HADES(ハデス)」ではないでしょうか。
スーパージャイアント・ゲームズ作のインディー・ローグライクアクションゲームで、2020年英国アカデミー賞ゲーム部門の「ベストゲーム」受賞のほか、SF文学アワード「ヒューゴ賞」のビデオゲーム部門賞にも選出されるなど、海外で多くの賞を獲得しています。
ザグレウスを主人公にしたエンタメに、私はそれまでお目にかかったことはありませんでした。
ハデスの息子、冥界の王子ザグレウスが、オリュンポスの神々の助けを得ながら、まだ見ぬ母(豊穣の女神ペルセポネー)に会いに行こうと、父親の配下にあるモンスターを倒し天上を目指して奮闘するのが、ゲームのストーリー。
ザグレウスは自分が育った冥界に不満を持っており、父ハデスに逆らって冥界からの脱出を試みるわけで、「叛逆」がテーマとされています。
ハデスは、「愚かな息子よ、何度言えば理解する? この冥界からは生者も死者も、何人も逃れられぬ」と説教を繰り返します。
ところが、ザグレウスには徐々に援軍もついてきて、たとえば、アテナが、「我がいとこよ、陰鬱とした冥界より逃れんとするお前の試み、オリュンポスの神々にも助力させよう。まずは私から」などと味方してくれます。
今回は、ザグレウスの周辺を深堀りしてみます。
Contents
ザグレウスの父親は誰?
ザグレウスの来歴については、わかっていないことがたくさんあります。本当に神なのか?という疑問もあります。
母は、豊穣の女神ペルセポネーのようですが、ハデスの息子との説も、ゼウスの息子との説もあります。
ゲーム「ハデス」では、ハデスの息子説を採っています。これは、古代アテナイの3大悲劇詩人のひとり、アイスキュロスのサテュロス劇「シーシュポス」(「逃亡者シーシュポス」と「岩を転がす者シーシュポス」の2部作)に登場します。
ただ、一般的に知られているのは、ゼウスの息子説かもしれません。密儀宗教の「オルフェウス教」に登場する少年神で、ディオニュソス神の一形態とも言われています。
ゼウスとザグレウス
まず、ゼウスの息子説のお話から紹介しましょう。
浮気者のゼウスは蛇に変身してペルセポネーに近づき、交わってザグレウスをもうけました。
ゼウスは、全宇宙を継ぐべき存在としてザグレウスを寵愛したものの、これに嫉妬したヘラは、巨体のティーターン族を送り込み、ザグレウスの惨殺を計画しました。
牡牛に変身して逃げようとしたザグレウスですが、ティーターン族に捕まって引き裂かれ、肉片を煮込んだシチューにされて食べられてしまいます。
このとき、アテナによって心臓だけは救い出され、ゼウスの元へ届けられます。ゼウスはこの心臓を飲み込んだあと、テーバイ王カドモスと女神ハルモニアの娘、セメレ―と交わってディオニュソスをもうけます。
これはザグレウスの「再誕」を意味し、ザグレウスが「ディオニュソス神の一形態」と言われる所以です。
ティーターン族、灰になる
さて、ザグレウスを引き裂いたティーターン族ですが、ゼウスの雷霆によって打ち砕かれ、灰になりました。
そのため、ディオニュソスの体にティーターン族の肉体と灰が混じりあい、罪深き「人間」が誕生したとも。
ティーターン的素質を擁する肉体は、ディオニュソス的神性を有する霊魂を拘束し、「輪廻転生」に縛られるとされています。
先に「ザグレウスは本当に神なのか?」という疑問を提示した理由が、少しおわかりになったでしょうか?
ゲーム「HADES」でも、「輪廻転生の世界」が語られます。ザグレウスが倒されると、冥界のハデスの館から再出発になり、「死」が延々と繰り返されるのです。
古代ギリシアでは、通常は死んだらそこで終わりです。神々からのご利益は、生きている間にしか受けることはできません。
死後には、天国も地獄もなく、全員がハデスの館の暗い影になるのですが、「輪廻転生の世界」を語るところからは、オルフェウス教の特徴が透けてみえます。
「輪廻転生」とオルフェウス教
「輪廻転生」は、オルフェウス教のテーマです。
オルフェウス教は、冥界を往還した詩人オルフェウスを開祖としています。
魂と肉体の二元論を信じ、人間の霊魂は、冥界から地上に戻り、輪廻転生により肉体的生を繰り返す運命を負わされていると考えられています。
そして、解脱とは、魂の輪廻を断ち切って最終的に神になることで、それには秘儀的な通過儀礼が必要とされます。
では、オルフェウスとはどんな人物だったのでしょう?
オルフェウスは竪琴の名手でした。亡くなった妻エウリュディケ―を取り戻すために冥府に下りていきました。
そこでハデスから「冥界から抜け出すまで決して後ろを振り返ってはならない」と条件を付けられて、エウリュディケ―を従わせます。
ところが、不安になったオルフェウスは、あと少しというところで後ろを振り向いてしまい、それが妻と最後の別れになってしまいました。
ちなみに、オルフェウスは、「ザグレウス賛歌」という曲をつくっています。
「その生きざまは神々に似て 気高さとあまたの傷を併せ持つ/ 人間たちのからだには ザグレウスより受け継ぐ 不死なる者の血流る/ 冥府の王子は 死すべき身 哀れ 冥王の虜囚 冥府を出ること 決して叶わず/ 奈落の底にて 永久の苦役につく」
ザグレウスの冥府脱出がいかに大変なことであったかが、想像できますね。
ハデスとザグレウス
ザグレウスはハデスの息子であるという説の根拠になった、アイスキュロスのサテュロス劇「シーシュポス」はどんな話なのでしょうか?
ここでも、浮気者のゼウスの話から始まります。
ゼウスは、オケアノス(ティータン族の海の神)の子どもと言われるアソポスの娘、エギナを誘拐します。
コリントス王シーシュポスは、それを知ってアソポスに密告。ゼウスは激怒し、死神タナトスに冥界の最奥にあるタルタロス(奈落)に連行するように命じました。
ところがシーシュポスは、タナトスが持ってきた手錠の使い方を教えてくれと言葉巧みに迫り、タナトスが実演している間に、手錠に鍵をかけてしまいます。
タナトスは、死神であると同時に、死の概念そのものでありました。その結果タナトスが動けなくなると、八つ裂きに処された者も斬首された者も、誰ひとり死ぬことができなくなったのです。
一番困ったのは、戦いを司る神アレースでした。そこでアレースは、タナトスを助け出し、シーシュポスを捕まえました。
捕まえられて冥府に送られることを覚悟していたシーシュポスは、妻のメロペーに、自分の葬式を出してはならないと命じていました。
シーシュポスは、冥府の王妃ペルセポネーに葬式が済んでいないことを訴え、自分を省みない妻に復讐するため3日間だけ生き返らせてほしいと頼みます。
心やさしいペルセポネーは頼みを聞き入れますが、冥府から地上に戻ったシーシュポスは、約束を反故にしてこの世に居座り続けます。とはいえ、結局、ヘルメスがシーシュポスを力ずくで冥界に連れ戻すことになるのですが……。
あれれ、冥王ハデスと王子ザグレウスはどこに?と思われるでしょう。
実はアイスキュロスの作品中では、「(シーシュポスは)ザグレウスと父の冥王の元に赴き、別れを告げた」と一文があるだけなのです。
冥界に戻されたシーシュポスのその後
冥界に連れ戻されたシーシュポスのその後、気になりますね。
神々を2度も欺いたシーシュポスは、重い罰を受けることになりました。
彼はタルタロスで、巨大な岩を山頂まで上げるように命じられました。シーシュポスがあと少しで山頂に届くところまで岩を押し上げると、岩はその重みでタルタロスの底まで転がり落ちて、この苦行が永遠に繰り返されることになったのです。
この岩の話は、ギリシャ神話の中でもよく知られているのではないでしょうか。「the stone of Sisyphus=シーシュポスの岩)」とは、英語で「徒労」を意味します。
タナトスとヒュプノス
先日、メトロポリタンオペラ(MET)のビデオを観ていて、ちょっと気になったことがあったので、記しておきます。
タナトスは、前述したように、ギリシャ神話に登場する「死」そのものを神格化した神。夜の女神ニュクスが生んだ息子で、「眠り」の神ヒュプノスと双子の兄弟です。
2021年に上演された「エウリディーチェ」は、MET初演で、若手作曲家マシュー・オーコインの意欲作でした。
オルフェウスの妻エウリディーチェ(エウリュディケ―)のフェミニズム的視点から描き直し、繰り返し作曲されてきたオルフェウスの冥府下りの物語に、新風を吹き込みました。
私がここで注目したのが、オルフェオ(オルフェウス)の分身で、生の世界に連れ戻そうとする「ムジカ(音楽)」のコスチュームです。
五線譜の金刺繍のある黒いコートで、両肩には小さな金の羽が……。ゲーム「HADES」のタナトスとヒュプノスのコスチュームにどこか似ていて、影響を受けたのかなと思うと、楽しくなりました。コミケでもウケそうな感じです。
ハデスの冥界の世界観はとても興味深いので、いずれまた探訪したいと思います。
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