ギリシャ神話や聖書の物語に魅了され、多くの作品を残した画家の一人に、ギュスターヴ・モロー(1826-1898)がいます。
モローの描いた幻想的な作品を、一度は目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。
本記事では、モローの表現の魅力に迫るとともに、描かれた神話の題材についても解説していきます。
孤高の画家、ギュスターヴ・モロー

まずモローとはどのような画家であったのか、簡単にご紹介します。
1826年にパリに生まれたモローは、建築家の父とピアノを得意とする母のもと、幼い頃から芸術に触れて育ちました。
1846年、20歳の頃に名門美術学校のエコール・デ・ボザールに進学。
ウジェーヌ・ドラクロワやテオドール・シャセリオーなど、フランスのロマン主義の画家たちの影響を受け、伝統的な技法を習得。
1857年からの2年間は私費でローマへ留学し、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなど巨匠の作品からも多くを吸収しました。
しかしモローはアカデミズムを踏襲するのではなく、新しい絵画の方向性を模索するようになります。
社交的な性格でなかったモローは次第にサロンとの距離を置くように。そしてアトリエにこもり、内面的な探究を通し黙々とキャンヴァスに向かい続けたのです。
モローがめざした「象徴主義」

モローがアトリエで作品制作に励んでいたのと時を同じくして、パリには、ポール・セザンヌ(1839-1906)、クロード・モネ(1840-1926)、ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)らがいました。
19世紀のパリ、と聞けばお気付きの方もいるかと思いますが、世の中に「印象派」という新しい表現方法が生まれた時代です。
当時、従来のアカデミックな美術に対して反発する動きが生まれ、ここで現れた美術の潮流の一つがよく知られている「印象派」です。
印象派とは、「感覚によって捉えた自然の姿をありのままに描き出す」という考え方です。
この印象派が誕生したとき、もう一つの新しい表現の方向性「象徴主義」が生まれていたのです。
モローが生きていた19世紀は、世の中の仕組みが科学によって解き明かされ、新しい技術が生まれ、人々の生活も大きく変化した時代でした。
例を挙げれば、ダゲレオタイプという画期的な写真術が発明されたのが1836年。
1951年には、ジャン・ベルナード・レオン・フーコー(1819-1868)によって地球が自転していることが証明されました。
チャールズ・ダーウィン(1809-1882)により『種の起源』が出版されたのは1859年の出来事です。
そのような状況のなか、19世紀後半になると、人間の内面に目を向け、目に見えない精神世界を表現しようとする動きが生まれます。
これは前述の、「感覚によって捉えた自然の姿をありのままに描き出す」という印象派の考え方とは方向性が異なるものでした。
モローは「目に見えないもの、ただ感じるものだけを信じる」と語り、人間の苦しみや不安、夢、運命、神秘といった実体のないものを神話や宗教の題材を用いて象徴的に描き出そうとしました。
このモローがめざした絵画表現を「象徴主義」と呼ぶのです。
モローの残した代表作
では、代表作をご紹介していきたいと思います。
「オイディプスとスフィンクス」は、モローがイタリア留学後に手がけた作品です。

サロンで発表されると批判もありつつも、高い評価を受けナポレオン公によって買い上げられることになりました。
「一つの声をもちながら、朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か?」という、なぞなぞを聞いたことのある方も多いでしょう。
スフィンクスが出したこの謎によって、テーバイの人々は苦しめられていました。
画面の中心にはオイディプスと、怪獣スフィンクスが向き合う様子が描かれています。
スフィンクスは女性の顔と乳房、鳥の羽を持ち、胴体は茶色の毛に覆われ獅子の姿をしています。
この怪獣と対峙するオイディプスは自信に満ちた表情をしているのに対し、スフィンクスの表情は怯えているようにも見えます。
それもそのはず、これまで誰も解くことのできなかったスフィンクスの謎をオイディプスが解き、ついに災いが解かれることとなったのです。
画面の細部に注目すると、さらにいくつかの重要な要素が見えてきます。
まずキャンヴァス下部には、男性のものと思われる手足が描かれています。
足は血の気が引いていますが、手は岩を必死でつかみ、今まさに息絶えようとしているように見えます。
これはスフィンクスの犠牲となった者を暗示しています。
画面右側には瓶の置かれた柱がありますが、これをよく見てみると、這い上がってきた蛇が蝶を威嚇しているようです。
本作は、見つめ合うオイディプスとスフィンクスの間に流れる張り詰めた空気がよく伝わってくる作品ですが、この蛇と蝶の関係性によって、この場面の緊迫感がより高められているのです。
さらに槍を握るオイディプスの手元には月桂樹の葉が描かれ、オイディプスの勝利を観るものに伝えています。
さらに他の作品も見ていきましょう。
サロメは新約聖書に登場する女性で、ヘロディアの娘とも呼ばれています。
この娘が父の誕生日に見事な踊りを見せ、その褒美は何が良いかと尋ねられたとき、「洗礼者ヨハネの首」と答えたのです。
悪女サロメの特異な存在は、多くの画家たちにインスピレーションを与えてきましたが、モローもその例外ではありませんでした。
1870年代以降にサロメを主題とした作品をいくつか残しています。

本作では、生首が切り落とされ盆にのせられている残酷な光景とは対照的に、女性は無邪気な表情を浮かべており、その異様さに心を揺さぶられます。
ヨハネの首は光を放ち、また画面左側に見えるのはろうそくの火でしょうか。光の存在がこの場面をよりドラマティックに見せています。
次の作品からは、背景の描写にもご注目ください。
描かれているのは、7つの蛇の首を持つ怪物ヒュドラと向き合うヘラクレスです。

ヘラクレスに命じられたヒュドラ退治は、12の功業のうち2番目の難業に位置付けられます。
背景には切り立った岩壁が描かれ、峡谷の左側にヘラクレス、右側にヒュドラを配置した構図によって、両者が対立しているさまを強調しています。
画面のなかのヘラクレスは、ネメアーの獅子の毛皮をまとい棍棒を持ち、ここでも勝利の象徴である月桂樹を手にしています。
ヘラクレスの姿は、人並み外れた怪力の持ち主というよりも、色白で艶かしさが伝わってくるようです。
場面の設定も、ヘラクレスが力まかせにヒュドラを攻撃するような場面ではなく、これから両者の戦いが始まる前の静かな一瞬を捉えているのが特徴です。
本作でも「オイディプスとスフィンクス」と同じように、向き合う両者の視線が交わることで緊張感が高められています。
次に、こちらの作品ではヘラクレスの3番目の妻・デーイアネイラが主題として描かれています。

傍にいるのは、半身半獣のケンタウロス。
エウエーノス川を渡る際、デーイアネイラはケンタウロスのネッソスに襲われてしまいます。
悲惨な場面のはずですが、二人の姿はまるでバレエの一幕のようで、優美さにあふれています。
「デーイアネイラ(秋)」と「ヘラクレスとレルネのヒュドラ」の作品ではいずれも、神話の登場人物だけにフォーカスするのではなく、背景の面積が大きく取られ、空間全体を描くことに気が配られていることががわかります。
きっと絵の前に立つと、目の前に広がる幻想的な世界に引き込まれる気がすることでしょう。
モローの描いた作品についてのまとめ
なぜこれほど多くの芸術家たちが神話の物語に惹かれ作品を作り出してきたのか、モローの作品を眺めていると、その答えが見つけられるような気がします。
生と死、人間の苦悩、正義と悪、気高さと愚かさなど、目には見えない普遍的な真理が神話のなかにあることを教えてくれるからです。
私たちの生きる現代は、モローの生きた19世紀よりも加速度的に技術が進歩し、合理的にものごとを進めるのが良しとされる時代です。
こんな時代だからこそ、絵の前で立ち止まり、理性に支配されず、目に見えないものの存在について思いめぐらしてみるのも良いのではないでしょうか。
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