日本神話は主に、「古事記」「日本書紀」という二つの書物に記録されています。
細かな点に違いはありますが、どちらの書物に記されている神話も、だいたいストーリーは同じです。
このため、多くの人が「日本神話は古事記・日本書紀に収められているものがほぼ全部」であると考えています。
しかしこれは、大きな誤解なのです。
通常、神話はどこの国・地域においても最初は口伝えで伝承されています。
やがてそれが何らかの理由で書物に記録され、後世に伝えられます。
この際、その時存在した口伝えの神話すべてが文字になるわけではないのです。
日本の場合、「古事記」「日本書紀」といった代表的なテキストに記録されなくても、各地の「風土記」などに記録された神話や、神社の神職によって伝えられた神話などが存在します。
神社の中には、由緒が古く昔から多くの信者を集めていたものでも、その祭神が「古事記」「日本書紀」には詳しく記録されていなかった、というものが珍しくありません。
また、古い神が比較的新しいがメジャーな神の「またの名」とされるケースも多く見られました。
今回はこのような「隠れた神」にスポットを当てて話をしていきます。
読者の皆さんの日本神話に対する理解が少しでも広がれば幸いです。
奈良時代に中央政府の命令により、各地で編纂されたその土地の歴史や土地の有様をまとめた書物です。
現在では「出雲国風土記」のみがほぼ完全な形で残っており、「播磨国風土記」「肥前国風土記」「豊後国風土記」「常陸国風土記」が一部欠損の状態で残されています。
その他の風土記は、さらに後に書かれた史料に一部引用の形でしか残っていません。
各国の風土記には、「古事記」「日本書紀」には収録されていない数多くの神話が含まれています。
Contents
マイナーな神様その1・ツクヨミノミコト
「もっとも高貴な神」の一人なのに正体がわからないツクヨミ
最初に紹介するのは、ツクヨミノミコトです。
「ツクヨミなら知ってるよ」という方は少なくないでしょう。むしろ、日本神話をまとまった本で読んだ方なら知らない人はいないだろうというぐらい有名な神です。
ただ、「ツクヨミってどんな神様?」と改めて尋ねると、言葉に詰まってしまう人も多いのではないでしょうか。
それでも半分ぐらいは「月の神様だよ」と答えるかも知れません。ですが、さらに詳しく尋ねていくと、ほぼ全員が何も言えなくなってしまうと思います。
実は「古事記」においては、ツクヨミの出番というのは、アマテラスオオミカミやスサノオノミコトと一緒に誕生し、父のイザナギノミコトから「夜の国を治めよ」と命じられたところしかないのです。
命じられはしたけれど、実際に夜の国に出かけて行って治めたのか、それとも父の命令を無視したのか、そこも書かれていません。
ひょっとしたら、弟のスサノオと同様にダダをこねて指定された国に行かなかった……という可能性も否定はできないのです。
「日本書紀」の場合、誕生以外にももう一つだけエピソードが収録されています。
それは、「ウケモチノカミ殺し」というものです。
ある時ツクヨミは、ウケモチノカミという女神のところに行きます。
ウケモチノカミはさまざまなごちそうを出してツクヨミをもてなしました。
しかしそのごちそうが実は女神の口から吐き出されたものであった、と知ったツクヨミは激怒し、ウケモチノカミを刺し殺してしまったのです。
殺されたウケモチノカミの体からはさまざまな食用植物が生まれ、その後人類はそれらの穀物を食べるようになった、といいます。
古事記について詳しい方なら、ここで「あれ?」と思うかも知れません。
そうです。実は「古事記」にもこれとそっくりな話があるのです。
ただし「古事記」のお話で登場する神はツクヨミとウケモチノカミではなく、スサノオとオオゲツヒメとなっています。
さらに詳しいことを言うと、とある女神が殺されてその遺体からさまざまな食用作物が生じる、という神話は世界中至る所に存在します。
これらの神話を、代表的なエピソードであるインドネシアのウェマーレ族のお話に登場する主人公の名にちなみ、「ハイヌウェレ型神話」と言います。
世界中に同じようなものが存在するお話ですから、そこに登場する神の名前がどうであろうと、あまり大きな問題ではありません。
殺す側は世界中どこの話でも男性なので男の神であれば誰でもよく、殺される側は女神であればいいのです。
というわけで、「古事記」「日本書紀」を合わせても、ツクヨミのオリジナルエピソードというのは一つも見つかりません。
独自の神話をひとつも持たないのに、「日本神話における三柱の主要な神」のひとりとされているのです。これは非常に奇妙な話です。
以下では、どうしてこのような奇妙な現象が生じたのかについて、ちょっとした仮説をご紹介します。
三人セットの神の真ん中は影が薄いパターンが多い
実は日本神話だけでなく、世界中の多くの神話で「三人で一グループの神々」の中にはその活動が不活発で、ほとんど独自のエピソードを持たない神、というのが一柱いることが多いのです。
特にこうしたパターンがよく見られるのは、インド・ヨーロッパ語族の神話においてです。典型的な例を紹介しましょう。
ヒンドゥー教の三大神といえば、シヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマーの三柱です。
彼らは高校世界史の教科書でも紹介される超有名神……のはずなのですが、実はブラフマーには独立した神話がほとんどなく、ツクヨミ同様影が薄い存在となっているのです。
インド国内にはシヴァとヴィシュヌを祀るヒンドゥー寺院は数え切れないほどありますが、ブラフマーを祀る寺院はほとんどありません。
どうやら、ヒントゥー教の世界には元々二柱の主要神としてシヴァとヴィシュヌがいたのですが、それだけでは収まりが悪いのでもう一柱追加しよう、ということで使われたのがブラフマーであるようなのです。
ヒンドゥー世界においては、「3」がこの世に安定をもたらす数だと考えられていたようでした。
同じく高校世界史の教科書で紹介されている「カースト制度」もこの「3つの要素で安定する」という思想から出ていると言われます。
教科書に出てくる「カースト」はバラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの四身分ですが、元々はヴァイシャまでの三階層しかありませんでした。
アーリア人がインドにやってきた時に、先住民を征服してそれまであった三階層の下に起き、四身分としたのだといいます。
また、ギリシャ神話においても、ゼウスはその兄弟であるポセイドーンやハーデースと世界を分け合って統治したとされています。
こちらの場合ハーデースが「影の薄い神」になります。
ギリシャ神話の中でハーデースが主要な役割を果たすのは、その妻であるペルセフォネーを強奪するエピソードです。
しかしこの神話の主役はペルセフォネーとその母デーメーテールであり、ハーデースは狂言回しとして登場するに過ぎません。
この話を除くとハーデースは独自の神話をほとんど持っていないのです。
この「三要素鼎立(ていりつ)」の世界観ですが、日本の神話においても見られます。
最も有名な「三要素鼎立」の例はアマテラス・ツクヨミ・スサノオの「三貴神」ですが、それ以前にもアメノミナカヌシ・タカミムスビ・カミムスビの三柱の神がいます。
アメノミナカヌシは、日本神話で最初にこの世に現れた神だとされています。続いて出現したのがタカミムスビ、さらにカミムスビが出現しました。
これらは「独神(ひとりがみ)」と呼ばれ、基本的に性別もなく、ただそこにあるだけの存在であったといいます。
つまり属性も個性もない、はなはだ影の薄い存在だったということになります。
しかし、それらのうちタカミムスビは後にアマテラスの参謀のような立場になります。
アメノミナカヌシはタカミムスビに比べればやや没個性ですが、伊勢神宮の外宮(げくう)の祭神である豊受大神と一体化し、その信仰が日本各地に広まりました。
カミムスビだけ、独自の神話を持たずずっと無個性で影が薄い存在のままだったのです。
アメノミナカヌシ・タカミムスビ・カミムスビの三柱の神は、「造化三神(ぞうけさんしん)」と呼ばれますが、神としての起源はその後に登場するイザナギ・イザナミよりも新しく、仏教の影響の元に成立したのではないかという説もあります。
この場合、先に紹介したヒンドゥー教の「三要素鼎立」の考え方が、仏教を媒介として日本神話に輸入されたとも考えられます。
ちなみにヒンドゥー教のブラフマーは仏教における梵天です。
ヴィシュヌは毘紐天(びちゅうてん)、シヴァは大黒天だとされています。
インドにおいては一番影が薄かったブラフマーですが、仏教においては一番メジャーな存在になっているように思われます。
シヴァは多くの別名を持っていますが、その中に「マハーカーラ」というものがあります。
「マハー」は「大」、「カーラ」は「黒」です。
この別名をそのまま漢字に当てはめるという作業が中国において行われ、その結果生まれた「大黒様」が日本にも輸入されたのだと考えられています。
こういった経緯を持つ神ですから「大黒様」は「古事記」や「日本書紀」には登場しません。
ただし「大黒」の読みが「大国」に通じるという理由で、大黒神はオオクニヌシと混同されるようになりました。
なお、仏教関連の神なので、「大黒様」は当初「大黒天」という名称で呼ばれていましたが、上記のオオクニヌシとの混同の結果「大黒神」とも呼ばれるようになったのです。
古代インドに最初に生まれた神話の体系は「ヴェーダ神話」と呼ばれるものです。これらは主にバラモン階層が神に捧げる讃歌である「ヴェーダ」に記録されていました。
ヴェーダ神話の主要な神はインドラ・ヴァルナ・ミトラ・ルドラなどです。
バラモンを頂点とする階層社会に動揺が起きるとヴェーダ神話は変質し、シヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマーを主神とするヒンドゥー神話が成立します。
なお、ヒンドゥー神話で「影の薄い神」扱いされるブラフマーですが、ヴィシュヌとともにヴェーダ神話にも登場しています。
ツクヨミの正体は何の神?そして果たして男神なのか?
ツクヨミの話に戻ります。
ツクヨミノミコト(月読尊)はその名の中に「月」が入るので、月の神であり夜の神であると考えられています。
しかし先に述べたように「古事記」には、その誕生以外の一切のエピソードが存在しません。ですから本当に月の神であり、夜の神であったかどうかはわからないのです。
ただし、太陽と対になる天体を神格化した存在である、ということはおぼろげながらわかります。
黄泉の国に死んだ妻・イザナミを訪ねていったイザナギですが、黄泉の国で妻が変わり果てた姿になっているのに仰天して逃げ出します。
腐敗した恥ずかしい姿を見られたイザナミは激怒し、ヨモツシコメと呼ばれる鬼神を遣わしてイザナギを捕らえようとします。
イザナギは髪飾りを投げ、櫛の歯を投げ、桃を投げて逃げます。髪飾りはブドウの房に変わり、櫛の歯はたけのこに変わりました。
ヨモツシコメたちは一時イザナギを追うのをやめてそれらをむしゃむしゃと食べ始めたので、時間稼ぎができたのです。
ちなみに最後に投げた桃は、イザナギが持っていたものではなく黄泉の国と地上の世界の境界に生えていた木からもいだものです。
この桃はヨモツシコメたちに食べられることはありませんでした。
桃は古来から邪なものを防ぐ霊力があるといわれる果物だったので、投げつけられたヨモツシコメたちはひるんでその場で足を止めてしまったのです。
このようにして地上に逃げ帰ったイザナギは、黄泉の国でのケガレを払うために、水に入って禊(みそぎ)を行います。
この禊の最後に左目を洗うとアマテラスが、右目を洗うとツクヨミが、鼻を洗うとスサノオが生まれたといいます。
神の目を太陽・月に例える神話は世界中に存在します。
この場合、片方の目が太陽になりもう片方が月になる、というのもよくあるパターンです。
エジプトの神ホルスの右目は月、左目は太陽であると考えられました。
イザナギの場合洗っただけですが、原初の巨人が英雄神に倒された後、その遺体を使って世界を作った、という神話の場合、目は太陽・月に利用されるケースが多く見られます。
イザナギの場合、巨人の肉体から世界が作られたというお話の変形とも考えられますから、その目が太陽・月になったというのはあまり突飛なものではない、ということができるでしょう。
インド・ヴェーダ神話の太陽神スーリヤは、原初の巨神プルシャの目から生まれたと言われています。
というわけで、ツクヨミが月の神だったということについては、間接的な裏付けができました。積極的にこれを否定するような材料も存在しないので、月の神だった、ということができるでしょう。
ただ、月の満ち欠けなどに関連づけられた神話は、先に紹介した通り一切伝えられていません。
次なる疑問の解明に移りましょう。果たしてツクヨミは男神だったのでしょうか。
実は、イザナギの生んだ「三貴神」の中で、性別が判明しているのはスサノオしかいません。スサノオの場合、各所で「ひげが生えていた」ことが明示されています。
また、高天原を追放された後、クシナダヒメという女性を妻として娶り、子を生ませていますから男性であったことに疑いの余地はありません。
ところが、アマテラスとツクヨミについては、「古事記」「日本書紀」のいずれにも性別が明記されていないのです。
「神の性別とかわざわざ神話に書くわけないだろう」と考える人も少なからずいるでしょう。ご指摘の通りです。
神の性別というのは、普通「誰と結婚してどういう子をもうけた」という記述によって掴んでいくものです。
「◯◯の娘」と書かれている神と結婚して子をもうけたのだからこの神は男性、という感じですね。先にスサノオの性別を「クシナダヒメと結婚したから男性」としたのもこのやり方に従ってのことです。
ところが、「古事記」「日本書紀」にはアマテラスにもツクヨミにも特定の配偶者がいた、という記述が存在しません。
アマテラスは配偶者を持ちませんでしたが、子は作っています。ただし、普通の方法でもうけたものではありません。
高天原にやってきたスサノオと、身の回りの品を交換して、それを砕いて口に含んで吐いたら子になった、という非常に変わった方法によっているのです。
こんなやり方で子を作っているのですから、親になる神の性別がわかりにくくなるのも当然です。
ただ、同時に子を作ったスサノオが男性の神ということで確定していますから、「アマテラス女神説」はかなり信憑性を深めてきます。
さらに、アマテラスは別名として「オオヒルメムチ」という名を持ちます。
「オオ」は「大」、「ヒルメ」は「日る女」、「ムチ」は「高貴な」という意味の古代語だといわれます。
本当に「ヒルメ=日る女」なら、アマテラスは女神ということになるでしょう。
ツクヨミの方には、こういった手がかりがほぼありません。
ただ、先に紹介した通りウケモチノカミを「剣で刺し殺した」とされていますから、普段から剣を持ち歩く=つまり男神だったのでは、ということになります。
また、「ハイヌウェレ型神話」の場合、食用作物を生み出す女神を殺すのは必ず男性となっています。
これもわずかにではありますが、「ツクヨミ男神説」の補強材料になっているように思われます。
これらを総合すると、「ツクヨミは状況証拠から男性の神である可能性が濃厚だが、文献上断言はされていない」ということになります。
このように、ツクヨミはアマテラス・スサノオといった日本神話を代表するような神の兄弟とされている割に、その正体はおろか、性別すら不詳という謎の多い神となっています。
ツクヨミを祀っている神社も実はあまり多くはないため、アマテラスとスサノオという二柱の神の関係を安定化するために、後になって「三要素鼎立」の思想に基づき追加された神であったのではないかと考えられます。
謎の多いツクヨミですが、文献が残されていないため、その正体を突き止めるのはかなり難しいと思われます。
ツクヨミのお話はこのあたりで止めておいて、次なる「古事記・日本書紀であまり紹介されていない神」であるスクナビコナの話に移りましょう。
マイナーな神様その2・スクナビコナノカミ
オオクニヌシのパートナーだった小さい神・スクナビコナ
オオクニヌシノミコトは、日本神話においてはアマテラス・スサノオに次ぐ知名度ナンバースリーの神といっていいでしょう。
アマテラスの子孫であるニニギノミコトがやってくるまでは、豊葦原の瑞穂の国(とよあしはらのみずほのくに)と呼ばれた日本を実質的に支配していた神でもありました。
「支配」といっても人民に君臨し、権威と権力をもって支配した、というタイプの神ではありません。
どちらかというと民の先頭に立って国土を開拓したり、薬を作って怪我や病に苦しむ民を救ったりといった、非常に優しくフレンドリーな神でした。
このオオクニヌシの国造りを助けたのが、スクナビコナノカミです。
「古事記」によればスクナビコナは、先に説明した神話の乏しい神・カミムスビの息子だということになっています。
「日本書紀」ではタカミムスビの子となっているので、これは後付で高天原の神と血縁関係を持たせたものと考えられます。
特にタカミムスビの子とした場合、オオクニヌシに国譲りを要求したニニギノミコトとの間に血縁関係が発生してしまいます(ニニギの母がタカミムスビの娘)。
こうなると国譲りの神話そのものが家族内の対立のような、非常にスケールの小さいものに感じられてしまいます。
またタカミムスビとスクナビコナの間に血縁関係があるのなら、それを頼りに平和的に交渉できたのではないか?という疑問も出てきてしまうでしょう。
こうした点を考慮すると、スクナビコナとカミムスビまたはタカミムスビとの血縁関係は、後から作られたものと考えるべきなのではないでしょうか。
スクナビコナは、あくまでもオオクニヌシのパートナーとして活躍する神であり、どの神と親子関係があるかという要素は原則的に後付けなのです。
スクナビコナとオオクニヌシが非常に関係性の深い神であるということは、その名前からもわかります。
オオクニヌシの別名は「オオナムチ」です。この名前のうち「ムチ」は「尊い」という意味の語ですから、名前の本体部分は「オオナ」となり、スクナビコナの「スクナ」とペアになります。
「オオナ」「スクナ」の「オオ(オホ)」「スク」は、現代語の「大(多)」「小(少)」にそのまま繋がります。
また古代においては、「オオ」「スク」に、軍事指導者であることを意味する「ネ」の語をつけた「オオネ」「スクネ」という称号が存在していたといいます。
「オオネ」は今でいう大将、「スクネ」は同じく少将に相当する語だということです。
このうち「スクネ」の方は「宿禰」の文字が当てられ、身分の高い人の(主として物部氏などの軍事氏族)名前の一部として用いられるようになります。
いずれにしろ、「スクナ」は現代語の「少ない」「小さい」に通じる意味を持っているということです。
スクナビコナはその名前の通り非常に体が小さく、普通の布で織った着物ではなく、蛾やみそさざいの羽根で作った服を着ていたといいます。
そしておそらくイモの仲間の植物の実で作った船に乗り、海の彼方から現れた、と記されています。
スクナビコナの姿を見たオオクニヌシは「あなたは誰ですか?」と尋ねます。
しかしスクナビコナは返事をせず、オオクニヌシにはその正体がわかりません。
そこでオオクニヌシはあたりにいる者たちに、この不思議な神について尋ねます。
その結果、ヒキガエルから「クエビコが知っているだろう」というヒントを得ました。クエビコというのは、かかしのことです。
クエビコは物知りであり、小さな神の正体を知っていました。
オオクニヌシはクエビコから「あの神様はカミムスビ様の御子であるスクナビコナ様ですよ」と告げられます。
スクナビコナはあまりに小さいので、高天原にいた父のカミムスビの手からこぼれ落ちてしまい、下界に至ったのだそうです。
カミムスビはオオクニヌシに、「スクナビコナと兄弟になって国造りを進めるがよい」と言いました。
これにより、二人は協力してさまざまな仕事を進めることになるのです。
以上の話は、「古事記」に収められている神話の要約です。
「海の彼方から現れた」ということで、スクナビコナの故郷は朝鮮半島であった、とする説が少なからぬ人たちによって唱えられました。
ただ現在残されている文献には、そのように明記されているものはありません。
スクナビコナには文化神としての側面があるため、「文化的なものはなんでも大陸から来た」と考える傾向の強かった研究者たちの思い込みである可能性が高いです。
現在では考古学の発達により、日本の文化のルーツは多岐に及んでおり、むしろ朝鮮半島以外の影響の方が強いとする説が主流になりつつあります。
オオクニヌシとスクナビコナの関係性は、海幸・山幸の関係と似ています。
海の彼方から文化神がやってきた、というよりは「古代の日本に海洋民と山岳民の二種類の人たちが住んでおり、それらの交流によって新たな国が作られていった」という方がより実際に近いように思われます。
日本神話のモチーフの一部は、後に独立したおとぎ話として語り伝えられました。
「桃太郎」は卑弥呼と同一人物との説があるヤマトトトヒモモソヒメの兄弟であるキビツヒコノミコトがモデルです。
海幸・山幸の神話も、そのままおとぎ話になりました。
同じように、体が小さいが知恵に溢れていたといわれたスクナビコナも、「一寸法師」としておとぎ話の主人公になったのでは、と考えられています。
また学者によっては、アイヌの伝説に出てくる小人の神であるコロポックルとスクナビコナの関係性を論じる人もいます。
ただし、アイヌのルーツは沿海州(樺太の対岸地域)からカムチャツカにかけて活動していた海洋民であり、日本人と交流を持つようになったのは鎌倉時代以降だということが次第に明らかになってきたので、コロポックルとスクナビコナはどうやら無関係であるようです。
日本神話においては「海の彼方から来た神」というのはスクナビコナだけではありません。エビス・アハシマ・ヒルコなども、「海から来た神」になります。
これらのうち、アハシマとヒルコは、イザナギとイザナミという日本の祖先神の子とされています。
この二柱の神は、イザナギとイザナミが婚礼のやり方を間違えたために、体に障害を負った状態で生まれてきます。
このため両親によって海に流されてしまうのですが、しばらく波間を漂った後に他の土地に流れ着いた、という神話があちこちに残っているのです。
ヒルコはイザナギ・イザナミの産んだ膨大な数の神の長子になります。
体に障害があったために流されてしまいますが、これは神としての高貴さを損なうものではなかった、という指摘もあります。
というのは、その名前である「ヒルコ」は「日る子」に通じ、「ヒルメ」であるアマテラスと対になっていたとも考えられているからです。
また高貴な生まれの英雄が、あちこちをさまよって経験を積み、最終的に生まれ故郷に凱旋するというパターンの話が、世界中に残されています。
これらは「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」と呼ばれています。
流された後のことが「古事記」「日本書紀」では語られていませんが、ヒルコのエピソードは貴種流離譚の一変形であるとみなすこともできます。
後に七福神に仲間入りするエビスのルーツは不明ですが、やはり海からやって来る神だとされます。
これらの神に共通するのは、いずれも「海から福をもたらす」とされている点です。
この「海からの福」は、単純に考えれば漁業によってもたらされるもの、と考えられます。
つまりこれらの神は、大漁をもたらすものとみなされたということです。
エビスというのは後にはやや侮蔑の意味を含んだ「異民族」という意味を持つようになりますが、本来は単に「よそから来たもの」という意味のみを持っていたようです。
そのエビスがもたらすものは、当初は単なる普通の魚だったと思われますが、後にはクジラやイルカ・サメといったサイズの大きなものに限定されるようになります。
神の大いなる力の象徴ということですから、そうなるのは自然のなりゆきだったのでしょう。
これら海からやってくる福の神たちは、しばしば同一視されます。
つまり、スクナビコナの正体はエビスであるとか、アハシマもヒルコも実はスクナビコナであった、などと言われるようになったのです。
もちろん、日本全国規模で「同じものだ」とされたわけではなく、これらの神の信仰が残った地方地方でそう考えられただけのことです。
逆にいうと「豊漁をもたらす神」というのは、漁業を生業とする地域では自然発生的にその信仰が芽生えます。
そうした普遍性のある神に、スクナビコナなりアハシマなりヒルコなりの名前をつけた、ということなのでしょう。
「海から来た神」の神話を調べてわかるのは、日本人という民族は海からの恵みに感謝の念を絶やさなかった民族である、ということです。
スクナビコナを祀る神社の代表は、あの大洗にあった!
スクナビコナのパートナーであるオオクニヌシを祀っている神社でもっとも有名なのは、出雲大社です。
ということは、スクナビコナを祀る神社も同じ出雲の土地にありそうなものです。
確かに、出雲市内には佐香神社という、スクナビコナらしい神を祭神とする神社があります。
ただし、佐香神社の祭神は正式には久斯神(くすのかみ)と呼ばれる醸造の神です。
「佐香(さか)」という名前から想像できるように、お酒の神様を祀った神社というのが本来の姿であるようです。
出雲系の神話の中には「スクナビコナは酒の神でもあった」というものがあるので、この久斯神がスクナビコナと同一視されたのだと考えられますが、より厳密に言えばスクナビコナを祀っているとは言い切れないように思われます。
では、はっきりと「スクナビコナを祀っている」という神社はないのかというと、そうでもありません。
ただ、オオクニヌシとスクナビコナの国造りのメインステージとなった出雲ではなく、ずっと遠い場所にありました。
かつての常陸国、今の茨城県にある大洗磯前(いそざき)神社です。
より正確にいうと大洗磯前神社は、那珂(なか)川河口を挟んだ対岸にある酒列磯前神社(さかつらいそざきじんじゃ)とペアになっており、大洗の方が主神オオクニヌシ、サブでスクナビコナ、酒列磯前神社の方が主神スクナビコナ、サブにオオクニヌシとなっています。
どちらも漁業が盛んな土地なので、「海から福をもたらす神」であるスクナビコナを祀るにはふさわしい神社であると言えるでしょう。
これら二つの神社の存在が確認できるのは、平安時代ぐらいからです。
日本全国の神社の格付け表である「延喜式(えんぎしき)」にも記録があるので、由緒は古いものと考えられます。
ちなみに、「伯耆国(ほうきのくに)風土記」では、スクナビコナは自分が蒔いて育てた粟が実って弾けた際に飛ばされてしまい、「常世の国」に行ったとされています。
この粟が植えられていた土地が現在の米子市の粟島神社だといいます。
粟島神社の祭神もスクナビコナですが、神社の名前から察するとアハシマと同一視されているようです。
さらに余談ですが、「常陸国(ひたちのくに)風土記」には自分たちの国のことを「いにしえに言う常世の国とはここのことだ」と誇っている箇所があります。
となると、米子で粟に弾かれたスクナビコナは、遠く大洗近辺まで飛ばされたと想像を働かせることができるかも知れません。実際のところは、海岸づたいにスクナビコナの神話が伝えられていった、というあたりだと思われますが。
常世の国は日本神話で海の彼方に存在すると言われる理想郷です。
古代中国では東方の波の彼方に神仙が住む「蓬莱国(ほうらいこく)」があるとされていました。
これと常世の国が直接的に関係するのかどうかは不明ですが、両者は非常に似通った存在として描写されています。
一部の研究者は、常世の国は理想郷ではあるが、生者のものではなく死者の国だ、とも言います。
おとぎ話で有名な「浦島太郎」が行った竜宮城(非常に豊かで、住民が不老長寿)のモデルも、常世の国であったとされます。
物産が非常に豊かであった常陸国の住民が「ココこそが常世の国だよ」と言い放ったのはすでに紹介した通りです。
また、「ひょっとしたら死者の国かもしれない理想郷」というイメージは、ケルト神話の妖精郷「ティル・ナ・ノーグ」や、アーサー王が最期に渡っていった「アヴァロン」とも共通しています。
ちょっとお下品なものも? 風土記に残されたスクナビコナとオオクニヌシの神話
「播磨国(はりまのくに)風土記」では、オオクニヌシとスクナビコナについて、非常に変わったエピソードが紹介されています。
ある時、二人は妙なことで論争をしました。
「ハニ(赤土)を担いで遠くに行くのと、長い間トイレに行かないのでは、どちらが辛いだろうか」と。
この場合のトイレは、大の方です。
いくら言い争っても埒が明かないので、二人は実験してみることにします。
すなわち、スクナビコナがハニを担いで歩き、オオクニヌシはひたすらトイレを我慢することにしたのです。
数日の間二人は旅を続けたのですが、ついにオオクニヌシが「もう我慢出来ない」と言い放ってその場にしゃがみ、盛大に用を足し始めました。
この時大便が草に弾けて飛び、オオクニヌシの着物についてしまいました。このため、この場所のことを「波自賀(はじか)」と名付けたそうです。
オオクニヌシがしゃがみこむのを見たスクナビコナも、「僕ももう限界だ」と言って赤土を投げ出します。
この赤土が丘になり、「埴岡(はにおか)」と呼ばれるようになったといいます。「ハニ」はいわゆる「埴輪」の原料となる土のことです。
以上の話は地名起源神話で、元はスクナビコナが赤土を投げる話がメインであったと思われます。
それにどういう理由でオオクニヌシがトイレを我慢する話がくっついたのかは不明です。
「はじか」の元だというくだりは、ちょっと強引すぎるように思えます。
ただこの話から、スクナビコナとオオクニヌシは非常に親密な関係であった、ということが伺えます。
常日頃から二人揃って土地の開墾作業にでかけ、掘り出した赤土を担いで歩き回っていたのでしょう。
「旅をした」という一節から、二人の開墾活動は一箇所にとどまらず、かなり広い地域で行われていたのだろう、ということも想像できます。
「伊予国(いよのくに)風土記」の逸文(他の文献に引用された部分)にも、二人の仲が良かったことを伝えるエピソードがあります。
二人が伊予国(今の愛媛県)にやってきた時、スクナビコナは突然病気にかかってしまいました。
オオクニヌシはたいそう心配し、病気に効果のある温泉を探し当てます。
ただし、体の小さなスクナビコナをそのまま温泉に漬けると溺れてしまいますから、オオクニヌシは温泉の湯を自分の手のひらにすくい、その中でスクナビコナに入浴させたといいます。
オオクニヌシの献身的な看護により、スクナビコナはすぐに健康を回復しました。この温泉が、後の道後温泉だといいます。
こちらも非常に微笑ましくかつ感動的なエピソードと言えるでしょう。
道後の湯で命拾いをしたからでしょうか、スクナビコナは温泉の効能に注目するようになります。
例によって相棒のオオクニヌシと全国をめぐり、健康回復に効果のある温泉を探して、民衆に教えていったといいます。
この時二人が発見した温泉には、伊豆や箱根の湯があったそうです。
これで謎の神の二柱目、スクナビコナのお話はおしまいです。次は第三の謎の神・オオモノヌシについて解説していきましょう。
マイナーな神様その3・オオモノヌシ
正体不明の大物、オオモノヌシの登場
非常に仲の良かったスクナビコナとオオクニヌシですが、先に述べたようにスクナビコナは粟の茎に弾かれて、「常世の国」へと去ってしまいます。
仲が良かったのになぜ?と思う方も多いと思われますが、スクナビコナは「よそからやってきた神」なので、いつか去ってしまうのはほぼ宿命なのです。
「常世の国」には死者の国のイメージがつきまとっていますから、志半ばでスクナビコナは病死してしまったのかも知れません。
いずれにしろ盟友を失ったオオクニヌシは嘆き悲しみます。
すると海の彼方からまたも光り輝く神が現れ、「自分を祀ってくれるなら国造りに協力しよう」とオオクニヌシに提案しました。この神が大物主(オオモノヌシ)です。
オオクニヌシは言われた通りにオオモノヌシを奈良の三輪山に祀り、これによって彼の国造りは完了したことになっています。
神が祀った神、というのはなんだか妙な感じです。ただそれだけにオオモノヌシの大物ぶりが伺えるような気もします。
「日本書紀」では、オオモノヌシはオオクニヌシの和魂(にぎみたま)であると伝えています。
日本神話の神には、その神本体以外にも「和魂」と「荒魂(あらみたま)」が存在するといわれます。
「荒魂」は、憤怒に燃え人々に祟りをなす恐ろしい神の一面であり、「和魂」はそれとは反対に慈愛深く民に恩恵をもたらす神の一面だ、というのです。
ヒンドゥー神話に出てくるシヴァの神妃も、似たような面を持ちます。
シヴァの神妃は、パールヴァティー・カーリー・ドゥルガーと三人いるとされていますが、実は三人は一体であり、慈愛深く優しい一面がパールヴァティーであり、血に飢えて怒り狂う姿がドゥルガーである、というのです。
つまりカーリーが本体ということなのですが、これは先に述べた通りシヴァの別名がマハーカーラであることからすれば当然のように思えます。カーリーというのは名詞カーラの女性型ですから。
話を整理しましょう。
「古事記」「日本書紀」では「スクナビコナが去る→オオモノヌシが自分を祀ってくれることを条件に協力を申し出る→三輪山に祀る→国造り完了」となっています。
ただ、祀るとそれでおしまいで、オオモノヌシはスクナビコナのように具体的な国造りの手助けをしていないことになります。
この場合、祀られるオオモノヌシはオオクニヌシよりも上位の存在となり、対等な関係にはなりません。
対等ではないため、同じ神の分身であるともみなしにくく、オオモノヌシはオオクニヌシの和魂である、という「日本書紀」の異伝との整合性も取れなくなってきます。
ですが、「国造りの実作業終了→スクナビコナが去る→悲しみを感じつつ同時に満足感を得て三輪山に引退→名実ともに国造り完了」という手順だと考えると、かなりすっきりします。
大仕事を終えて安らかな気持ちになったオオクニヌシは、いつしかオオモノヌシという名で呼ばれるようになった、ということなのではないでしょうか。
基本的に満足しているオオモノヌシは人々に荒ぶる神としての面は見せません。つまり「和魂」になったのです。
裏付ける史料がないので、あくまでも推測にしかなりませんが。
以上のような経歴からわかるとおり、オオモノヌシは「国津神(くにつかみ)」つまり出雲系の神です。
しかし、日本最大のオオモノヌシを祀っている神社である大神神社(おおみわじんじゃ)は大和の三輪山にあります。
アマテラス、つまり「天津神(あまつかみ)」の子孫である皇室の根拠地とほぼ同じ場所なのです。
三輪山周辺には3~4世紀に作られた古墳が密集しており、かなり大規模な政治的集落があったことが確認されています。
この場所が魏志にいう「邪馬台国」であったかどうかはともかく、その後長い間現在の奈良県地方を中心に勢力を誇った天皇家の祖先がこの地にいたということは、ほぼ間違いがないことだろうといわれているのです。
「古事記」「日本書紀」では、オオモノヌシについては国造り終盤にオオクニヌシの前に現れて三輪山に祀られた、ということ以外にはほとんど記述がありません。
わずかに「皇室に関係する女性の夫になった」というお話が残っているぐらいです。
状況的に、ヤマト王権に対してかなりの影響力を行使していたらしいのですが、なぜそんなことができたのかについては皆目わからないのです。
可能性としてもっともありえるのは、オオモノヌシは皇室の先祖が大和に移住してくる以前にここに居住していた豪族たちの神であった、ということです。
皇室の祖先は古くから大和にいたわけではなく、他の地域からやってきた、ということは「古事記」・「日本書紀」にも書かれています。
この人々(天孫族)が信じていた神が、「古事記」「日本書紀」ではメインの神となり、古くからいた神であるオオモノヌシは無視されがちになったのでしょう。
ただ完全に無視をすることもできないので、「古事記」「日本書紀」にもしばしば、前後の脈絡なしにほんの少しだけ登場するようになっているのだと思われます。
天津神はアマテラスをリーダーとし、高天原に居住していた神の一族であり、国津神はスサノオとその子孫であるオオクニヌシをリーダーとし、日本の国土に住んで国造りを行っていた神々をいいます。
よく国津神は縄文系の民族、天津神は弥生系の民族に例えられ、天津神の子孫であるヤマトの大王は、海を渡って朝鮮半島から来たのだ、と言われました。
ただ最近の考古学の成果から、そんな単純な話ではない、ということが明らかになってきています。
戦後長く日本の歴史学会では、天皇家は朝鮮半島から渡来した騎馬民族のリーダーであった、とする騎馬民族国家説が主流でしたが、現在ではほぼ否定されています。
オオモノヌシと結婚した女性たちの運命
先に述べた通り、「古事記」「日本書紀」は、オオモノヌシについてはほとんど神話を伝えていません。
そのわずかな例外となっているのは、オオモノヌシの結婚に関わる話です。これは二通り伝わっています。
「古事記」のお話は、オオモノヌシはタマヨリヒメという女性が美人であるというのを知った、というところから始まります。
オオモノヌシはタマヨリヒメを自分のものにするため、自分の体を一本の矢に変え、川上から流れていきます。
そして川の下流で用を足そうとしていたタマヨリヒメの女性器を突きました。
タマヨリヒメは驚きながらもその矢を持ち帰り部屋に飾っておくと、やがて矢はオオモノヌシの本体である美しい青年の姿に変わり、タマヨリヒメの夫になったというのです。
二人の間に生まれた子が、後に神武天皇の皇后となったホトタタライスケヨリヒメです。
なお、この娘の名はその出生のいきさつからつけられたものでしたが、本人が名前の中に「ホト(古語で女性器)」という単語が入っているのを嫌い、「ヒメタタライスケヨリヒメ」と改名したと伝えられています。
このイスケヨリヒメの父親は三嶋湟咋(みしまのみぞくい)というのですが、これは神武天皇の東征神話で有名な「八咫烏(やたがらす)」の別名だともいいます。
このお話の意味するところは、神武天皇はヤマトの地において三輪山の神(オオモノヌシ)を奉じる有力な一族から妻を迎えて、初代天皇として即位した、ということです。
神武天皇はイスケヨリヒメよりも前に別の女性を妻としており、子もいました。
にも関わらずその正統の妻を正妻とはせず、ヤマトの有力氏族の娘を正妻としたのです。
イスケヨリヒメとの間の子は後に第二代の綏靖(すいぜい)天皇となりますが、その即位前夜には神武天皇の前妻の子である手研耳命(タギシミミノミコト)が天皇の位を奪おうと反乱を起こした、と伝えられています。
オオモノヌシが妻としたもうひとりの女性は、倭迹迹姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)」です。
「古事記」「日本書紀」では彼女を第七代孝霊天皇の息女としています。
彼女は一言でいうと、「巫女」でした。
名前の一部となっている「トトヒ」は、現代語でいうところの「飛び」で、意識を飛ばして神を降ろすタイプの巫女であったと考えられます。
「モモソ」は「百(モモ)」「十(ソ)」で、非常に数多くの神を降ろすことができたのだろうと想像されます。
なお、彼女の兄弟には吉備津彦命(キビツヒコノミコト)がいます。
この人物は「四道将軍」として日本各地に派遣され、ヤマト王権の強化に務めた人で、後に「桃太郎」のモデルにもされたといわれています。
キビツヒコは名前から「吉備(後の備前・備中・備後。現在の岡山県から広島県に至る海岸沿いの地域)」との関係が濃厚です。
元はこの地域で祀られていた神だったものが、後から皇室の系譜に組み入れられたものでしょう。
「日本書紀」によれば、ヤマトトトヒモモソヒメは、何度もオオモノヌシの「神降ろし」をしていたのですが、いつしかオオモノヌシ本人の妻となっていたようです。
オオモノヌシは神ですから、夫になったとはいっても妻にその正体を明かすことはしません。
夫婦といっても、夜寝る時に夫であるオオモノヌシがどこからともなく現れ、妻とふしどを共にするだけの関係でした。
電気のない当時、寝る時には明かりを消して部屋の中を真っ暗にしますから、一緒に寝ている相手の顔がどうであるかはわからないのです。
古代人の結婚というのは、妙齢になった女性の家に男性が忍んできて一夜をともにするという、いわば「夜這い婚」でした。
男性の家に女性が「嫁いで」くるのが一般的になるのは、武士の時代になってからだと言います。
平安貴族も多くはこの夜這い婚でしたが、忍んで行く前に相手と和歌のやり取りをしていたようです。
「源氏物語」の末摘花(すえつむはな)には、とある女性と和歌のやり取りをしてようやくOKをもらった光源氏が喜んでその女性の家に行ったはいいが、朝目を覚ましてその女性の顔を見ると、ひどい不美人でびっくりした、という話が伝えられています。
ヤマトトトヒモモソヒメは、オオモノヌシに「あなたがいったいどういう姿をしているのか教えてください」とねだります。
オオモノヌシは最初断っていましたが、やがて断りきれなくなって、「明日の朝小物入れの中を覗いてごらん。わたしはそこにいるから」と言いました。
ヤマトトトヒモモソヒメが言われた通り、翌朝小物入れの中を覗くと、そこには小さな蛇がいました。
彼女は驚いて尻もちをついたのですが、その際運悪く箸が女性器に突き刺さってしまい、そのまま死んでしまいます。
なんだか女性器に突き刺さる話ばかりだなあ、という気もしますが、深入りすると下品になりそうなのでスルーして続けましょう。
ヤマトトトヒモモソヒメは、死後大きなお墓に埋葬されたのですが、人々はそのお墓を、死因にちなんで「箸墓」と名付けました。奈良県桜井市に現存する箸墓古墳です。
この古墳は前方後円墳の最初期のグループに属するのですが、同時期の墳墓に比べるとサイズが巨大です。
オオモノヌシの巫女であったとはいえ、一皇女に過ぎない人物の墓であったとは考えにくいものがあります。
そこで、考古学者の一部の間で、「ヤマトトトヒモモソヒメは卑弥呼であり、箸墓は卑弥呼の墓である」とする説が唱えられるようになりました。
放射性炭素による年代測定だと、箸墓古墳は3世紀中盤ぐらいに作られたものとなり、卑弥呼の没年とほぼ一致します。
ただ、放射性炭素による年代測定の信頼性は絶対と呼べるレベルではありません。
箸墓古墳は皇族の墓とされているので宮内庁管理となっており、一般人の立ち入りは禁止です。
ですから調査団が中に入って遺物を掘り出すということもできません。
このためもあって、「ヤマトトトヒモモソヒメ=卑弥呼説」は確証を得られずいまだに仮説のままとなっています。
もしも事実がこの仮説通りだったとした場合、邪馬台国の政治には出雲族の神であるオオモノヌシが強い影響力を持っていた、ということになります。
それだけでなく日本の統一国家形成の過程における出雲族の影響がこれまで考えられていた以上に強くなり、古代史の全面的な書き直しが必要になるかもしれません。
オオモノヌシはコトシロヌシと同じ神だった?
さて、オオモノヌシのやったことですが、その多くが「実はそれはオオモノヌシではなくコトシロヌシがやったことなのだ」としている文献が結構見つかります。
コトシロヌシはオオクニヌシの息子の一人です。
オオクニヌシには全部で180人前後の子がいたということになっています。
ニニギノミコトの前触れとして、高天原からタケミカヅチノミコトが国譲りの交渉をしに来た際、彼らは素直に天津神族に国を譲ろうとした恭順派と、国を譲る必要などないと主張する抗戦派に分かれます。
コトシロヌシは恭順派のリーダーです。
タケミカヅチが国譲りを迫ると、オオクニヌシはまず「コトシロヌシの意見を聞いてくれ」と言います。
そこでコトシロヌシの所に行くと、コトシロヌシは「いいですとも」と言い、近くにあった船を踏み破って青垣を作り、その中に隠れてしまいました。
「古事記」「日本書紀」では、「隠れた」と表現した場合ほぼその神は死んだという意味になります。
ただし神ですから、死んだとしてもその霊は残り、巫女を通じて意思を伝えてきたりするのですが。
というわけでコトシロヌシも、その兄弟で抗戦派のトップであったタケミナカタも、タケミカヅチの前から「隠れた」ことになっているのですが、実際にはその後にもちょこちょこと顔を出してきます。
特にコトシロヌシの場合、各種の異伝でオオモノヌシの代役を果たすケースが目立ちます。
オオモノヌシの正体はよくわかりませんが、先に述べた通り、オオクニヌシの和魂である、とする説が有力です。
他方コトシロヌシはというと、天津神に従順なオオクニヌシの子、ということですから、オオクニヌシの和魂に限りなく近い存在であると考えられます。
つまり、親子関係になっている独立した神格として扱われていますが、オオクニヌシもコトシロヌシもオオモノヌシもタケミナカタも全部元は一体だったのではないか、と考えられるのです。
これは先に説明した、元は一柱であったシヴァの神妃が、パールヴァティー・カーリー・ドゥルガーという独立した三柱の女神に分裂していった過程とよく似ています。
コトシロヌシとオオモノヌシの場合、あまりにも重複した例が多いので、両者は本来同一の神であった、と考えた方がいろいろと解釈しやすくなっている、という現実があります。
「古事記」では、タマヨリヒメを妻にしたのはオオモノヌシである、と書かれていますが、「日本書紀」ではコトシロヌシになっているのです。
マイナーな神様その4・「せんげん様」と名もなき山の神
「浅間山の神」を祀っているわけではない浅間神社の祭神とは?
日本国中に非常に数多くの同名の神社があり、今なお多くの人々の信仰を集めている神社に「浅間神社」があります。
「あさまじんじゃ」ではなく「せんげんじんじゃ」と読みます。
「浅間」と聞くと、多くの人は群馬県と長野県の間にある浅間山を連想すると思います。
「だから浅間神社は浅間山の神様を祀っているのではないか?」とも。
これは半分当たっているのですが、半分は外れです。何より、「浅間神社」は、群馬県・長野県にはほとんど存在しないのです。
「浅間神社」は、関東の平野部から東海地方の海岸沿い、そして山梨県近辺に集中しています。これらはすべて富士山がよく見える場所です。
このあたりで種明かしをしておきましょう。「浅間神社」は「富士山の神を祀る神社」なのです。
「あさま」は日本の古代語で、活火山全般を示す言葉だと言われています。
九州にある阿蘇も、語源は同じだったといいます。
「浅間」は「あさま」への当て字です。言葉としては「あさま」の方が古いのですが、神社の名として呼ぶ場合は当て字を音読みして「せんげん」と呼びます。どうしてこうなったのかはよくわかりません。
浅間山は現在でも「あさま」、つまり活火山ですが、古代において日本を代表する活火山といえば、富士山だったのです。
山そのものをご神体とみなす山岳信仰は世界中どこにでも存在します。
しかし、活火山の数が多かった日本においては、山岳信仰は他国のものよりも特別な意味を持っていたのでしょう。
活火山は「荒ぶる神」そのものであり、麓に住む人々はそのたたりが我が身に降りかからないように、山をご神体として祈りを捧げたであろうことは、容易に想像できます。
火山灰や土石流といった深刻なたたりをもたらすので、活火山の神である浅間様は人々の信仰を集めましたが、独立した神話をほとんど持ちません。
活火山の神が本気で荒れ狂ったら周囲に住んでいた人々は全滅してしまいますから、神話があったとしても伝えようがないのかも知れません。
当然、浅間様については「古事記」「日本書紀」はおろか、各国の風土記も神話らしい神話を伝えていません。
ただ一つだけ、例外的な神話を「常陸国風土記」が伝えています。
ある時、親神様が富士山の神のところを訪れ、一晩泊めて欲しいと頼みました。
ところが富士山の神は、「今もの忌み中だから」という理由で親神様の頼みを断ってしまいました。
親神様は悲しみつつ今度は筑波山の神の所に行き、同じように一晩泊めてくれと頼みました。
筑波山の神は「ようこそおいでくださいました」と親神様を歓待します。
親神様は冷たくされた富士山の神を呪い、歓待してくれた筑波山の神を祝福します。
この結果、富士の山は夏でも氷に覆われて誰一人寄り付かないのに、筑波の山には老若男女が集まって楽しく宴を催すようになったのだ、といいます。
この神話で重要な役割を果たす「親神様」ですが、具体的にどういう名前の神であるかは伝わっていません。
神に名前をつけて呼ぶ以前の素朴な信仰が元になっているのでしょう。
もちろんこれは、富士山のある地域の人達に対して常陸の人々が素朴にドヤったというお話です。
ですからそれに言い返すような話が富士山の近辺にもあったのではないかと思われるのですが、残念なことに富士山の周囲を取り囲む国々の風土記は現代に伝わっていません。
「浅間様」そのものは名前もよくわからない神様なのですが、いつの頃からか浅間神社には、名前付きの神様が浅間様とともに祀られるようになりました。
コノハナサクヤヒメです。コノハナサクヤヒメは、ニニギノミコトの后です。
大山祗命(オオヤマツミノミコト)という神の娘で、その名前のごとく木の花が咲き誇るような美人でした。
このサクヤヒメは、嫁いですぐに妊娠したので、ニニギは自分の子ではないのではないかと疑います。
そこでサクヤヒメは疑いを晴らすために、出産のために作られた産屋に入ると、いきなり火をつけてしまいました。
「天津神のお子であるならどういう状態でも無事に生まれる。そうでなければこの火に包まれて焼け死ぬだろう」などと、凄まじいことを言いながら。
実際にお腹の子がニニギの子だったせいか、サクヤヒメは無事に三人の子を産みます。この三人がホデリノミコト・ホスセリノミコト・ホオリノミコトです。
ホデリノミコトとホオリノミコトは、海幸彦・山幸彦という別名の方が有名でしょう。
ホスセリノミコトについては、「古事記」「日本書紀」ともに独自のエピソードを伝えていません。
三人で一セットなのに一人だけ影が薄いキャラが入ってくる、というパターンがここでも登場しました。
それはともかく、この火中出産のエピソードのおかげで、サクヤヒメは火と縁が深いとみなされ、活火山の神を祀る浅間神社に招き入れられたのではないかと考えられています。
オオヤマツミは起源の古い神で、イザナギ・イザナミの子とされます。
これまた独立した神話に乏しい不活発な神ですが、さまざまな神話に登場する人物・神の親として名前が出ます。
ヤマタノオロチ伝説に登場するクシナダヒメの父母であるテナヅチ・アシナヅチもオオヤマツミの子とされています。
「神話がない神」であるにも関わらずオオヤマツミを祭神とする神社の数は多く、全国に1万社以上存在するといわれています。
浅間神社同様、日本中に点在する「三島神社」の主祭神もオオヤマツミです。
結論:名もない神ほど起源が古い? 日本人と神との関係を考える
「古事記」「日本書紀」に記されている日本神話は、現在の皇室の先祖がいかにして統一された日本の国の基礎を作っていったか、ということに力点が置かれています。
歴史的事実としてこうした統一活動が行われたのは、3世紀から6世紀ぐらいにかけてです。
日本神話の場合建国の英雄の数代前は神になってしまうので、なんとはなしにそれらの神の元になった人々が存在した時代は紀元前後ぐらいなのでは……と思ってしまう人が多いと思われます。
一応、神話に書かれている天皇の在位年数を頼りにすれば紀元前660年まで遡れるのですが、このあたりについては「神話だから」という理由で年代を詰めてしまう人も少なからずいます。
そんなこんなで、「日本の神の信仰は、だいたい紀元前後ぐらいから始まった」と漠然と思っている人が多数派になっているのですが、果たしてそうでしょうか。
日本の神々の信仰の拠点であった「神社」の中には、かなり由来が古いものがあります。
ごく一部には、あまりに古すぎていつぐらいからここで神が祀られたのかわからない、というものも存在します。
こうした古い古い神社の場合、その根っこが縄文時代にたどり着く、というものもあるのです。
日本人の神への信仰は、紀元前660年どころか数千年前から始まっているものもあるわけです。
特に山岳信仰など、信仰の対象になる神に名前がなかったりする場合、由緒が古くなる可能性が高まります。
かつて活火山であった富士山を伏し拝む行為などは、恐らく富士山が見える地域に人が住み着いた時から行われているでしょう。
つまり、「浅間様」の信仰は、その時から始まっていると言えるのです。
「古事記」「日本書紀」に詳しく書かれていない神、というのは、このように縄文時代の古い古い日本人と、現代の日本人の精神世界を繋ぐ鎖の役割をしているのだ、と考えられます。
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