現代は、キリスト教徒の方ではなくとも、書店や図書館、あるいは旅先のホテル(!)で新約聖書を読むことは簡単にできる時代です。
その新約聖書の最終章に、趣のまったく異なる文書が入っています。
ハリウッド映画やオカルト小説でとにかくよく引用される『ヨハネの黙示録』です。
ざっとページをめくっていっても、
- 「7つの目のある羊が、第7の封印を解いた」
- 「太陽は真っ黒になり、月は真っ赤になり、星はいちじくの実のように地上に落ちていった」
- 「大きな火の玉が海に投げ落とされ、海の三分の一が血液に変わり、船と海の生き物は三分の一が死んだ」
- 「やがて海からは第一の獣、地中からは第二の獣があらわれた。獣は人々に666という印を刻んだ」
などといった異様なイメージが洪水のように溢れており、しかもそのブキミさの圧倒的なこと、読んで気持ち悪くなる人すらいるのではないでしょうか。
ただいっぽうで、ここに書かれているイメージが、怖いながらもどこか妙に「魅力的」なことも確か。
それがまさに現代のサブカルでも、しばしば『ヨハネの黙示録』がネタに引用される理由なのですが。
誰でもが書店や図書館、旅先のホテルで確認できるところにある、このブキミなイメージの羅列の文書、『ヨハネの黙示録』。
この文書はそもそも一体何なのでしょうか?
Contents
キリスト教の歴史の中でも大問題だった!『ヨハネの黙示録』は聖書の一部か、外伝扱いか?
この文書に違和感を覚えるのは日本人だけではありません。
古代や中世のプロの聖職者や神学者たちの間でも、『ヨハネの黙示録』はしばしば議論の的となりました。
議論といっても、「その内容をどう解釈するか」というようなレベルのものばかりではなく、
「これって新約聖書の中に入っているけど、何かの間違いじゃないの? 外しちゃって別の本にしたほうがいいんじゃないの?」
という、まさに「そもそも論」な議論がたびたび繰り返されていたというのですから。
歴代のキリスト教界のリーダー達も、この文書の扱いにはそうとう困っていたようです。
だいいち、「三分の一の人口が死んだ」とか「三分の一の海の生き物を殺した」とかいったイメージが平気で出てくる内容は、博愛や平等、愛による和解を説いているはずのイエス・キリストの教えと、どうしても合わない。
『ヨハネの黙示録』の中にもイエス・キリスト自身(……と思われる救世主)が姿を見せるところはあるのですが、その姿たるや、口から剣を生やし目を真っ赤に燃え上がらせたイエス像です。
こんな魔王のような強そうな姿の救世主、キリスト教の伝えたいイエス像とは、はなから正反対と言ってもいい。
そのように、正当なキリスト教のリーダー達すら、時には「新約聖書から削除したい」と提案されていた、やっかいものが『ヨハネの黙示録』なのです。
もともとの作者の意図はなんだったの?まずは「預言書」と「福音書」と「黙示録」の違い
こんなに議論になる文書が、どういう経緯で新約聖書の、しかも「最終章」に置かれているのでしょうか?
詳しい経緯は諸説があり、「こうだから」という明確な説があるわけではないのですが、確実に言えることとしては、「どうやら『黙示録』と呼ばれるジャンルの文書は、古代の中東世界にはたくさんあったらしい」ということです。
おそらく、新約聖書の成立期にも、類似の「黙示録」がいくつかある中で、厳選された結果、唯一『ヨハネの黙示録』が残ったのでしょう。
そもそも「黙示録」とは何か。
これは、聖書に収められている他の書が「福音書」や「預言書」と呼ばれているのと比較すると、わかりやすいです。
それぞれ説明しましょう。
まず「福音書」というのは、一番わかりやすい形式です。
イエス・キリストという人物の言行録とでもいうべき位置づけです。
「イエス・キリストがこんなことを言った、こういう行動をとった」ということを、弟子が記録した文書とされているので、現代人にも納得しやすい形式です(他の宗教や哲学でも、「弟子がまとめた言行録だけが残っている偉人」というのは、ソクラテスやお釈迦様などを含めてよくいますので、形式としては違和感がないのです)。
次に「預言書」というのは、ちょっと難しいです。
「ノストラダムスの予言」とかでいう「予言」とは別のコトバなので、注意が必要です。
神様のコトバを「預かって代理で伝える」というような意味です。
そうはいっても巫女さんやシャーマンのような「憑依状態」みたいなものとも違うので、これはもう「預言書」と言われるものを読んでいただくしかないニュアンスなのですが。
ともかくここで伝えられるコトバは、「これを信じていたらこうなるよ」とか「これを守っていたらこうなるよ」とかいった、ポジティブな導きのコトバになります。
では「黙示録」は?
こちらのほうが、「ノストラダムスの予言」みたいなもののイメージに近いと思います。
作者は神に乗り移られたり、あるいは夢の中で天使に導かれたりして、「神の教えの真実をビジョンとしてみんなよりも先に見てきた」人であり、そのときのビジョンを思い出しながら文書に記したものが『黙示録』となります。
そのビジョンというのは何かというと、信者たちが「できるだけどんな風景なのか映像的に見てみたいところ」となります。
初期キリスト教の考え方では、神の裁きは現実世界に「世界の終末」としてやがて訪れ、そのあとに神の楽園が地上に築かれます。

そのため、この信者たちが映像でぜひ見たい風景の筆頭といえば、「やがて来る世界の終末っていうのはどんな風景なの?」「そのあとに訪れる地上の王国っていうのはどんな風景なの?」となるわけです。
第一回のまとめ:『ヨハネの黙示録』のそもそもの意義
整理すると、『ヨハネの黙示録』とは、以下のようなニュアンスの文書といえます。
私、ヨハネというキリスト教信者が、神様の導きで、未来に訪れるという『世界の終末』と『その後に築かれる地上の王国』の風景を先取りのビジョンとして見せてもらった。
どんな風景が見えたのかを、思い出しながら記録したのがこの文書である。
敬虔なキリスト教徒たちは、引き続き、正しい教えを守りなさい。
教えを守らなければ、未来に訪れるこのような恐ろしい『世界の終末』の中であなたは滅ぶ側の人間になる。
教えを守れば、この『世界の終末』をも乗り越えて、その後の地上の王国に迎え入れられることだろう
キリスト教の信者たちの「信仰」のモチベーションになるべき文書であり、そういう意味を期待されて新約聖書に「ひとつだけ加えられた黙示録」となったという位置づけのようです。
ただし、そもそも新約聖書の福音書ではあまり『世界の終わり』云々を強調していないので、最終章に出てくるこの「一遍だけの黙示録」が、かなり異質に浮いている、ということになります。
さてこの『ヨハネの黙示録』の強烈な魅力は、登場する異形のモンスター(?)たちのすさまじさにあるのですが、それについては次回、見ていきましょう。
※なお、この『ヨハネの黙示録』をめぐる連作記事は、以下の参考文献を使用しております。デリケートな研究対象につき、別の参考文献や論者によっては、まったく違う解釈があり得る旨、ご了承ください。
- L・ファン・ハルティンクスフェルト著『ヨハネの黙示録』(教文館)
- ジョナサン・カーシュ『聖なる妄想の歴史』(柏書房)
- 視覚デザイン研究所『オレたちに明日はない? -黙示録の解読ガイド-』(株式会社視覚デザイン研究所)
コメントを残す