テンプル騎士団は滅んでもヨーロッパの大衆文化に伝説は拡散!火刑に処された騎士団長の執念は今も消えず

「中世三大騎士団」という呼称をご存知でしょうか?

いわゆる十字軍の時代にヨーロッパから中東までを駆け巡り、イスラム教勢力との戦争でさまざまに活躍したのみならず、ヨーロッパの政治抗争史にもたびたび顔を出した三つの代表的な騎士団のことを指します。

具体的には、聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団、テンプル騎士団のことです。

とりわけテンプル騎士団は、ヨーロッパにおいていまだに「テンプル騎士団の隠し財宝」の都市伝説が大衆文化をたびたびにぎわすなど、滅亡から七百年近くが経過した今でもその影響力は強く生き残っています。

どうしてテンプル騎士団は現代においてもこれほど強い関心を引き寄せているのでしょうか?

それは彼らの滅亡の軌跡が、他の騎士団に比べて、あまりに劇的で陰謀めいた因縁に包まれていたから、といえそうです。

テンプル騎士団は時のフランス王家の陰謀にはまり、権力によって濡れ衣を着せられた上で、滅ぼされたのです。

火刑に処された騎士団長の、不気味な「フランス王への呪い」の宣言を伴って。

キリスト教世界の「清貧な騎士」イメージそのままの名門『テンプル騎士団』

テンプル騎士団の紋章
テンプル騎士団の紋章(原典

もともとテンプル騎士団とは、修道士騎士団と呼ばれる中世の騎士団の代表格でした。

つまり彼らは武装をした騎士団でありつつ、ヨーロッパ社会での位置づけとしてはあくまでもキリスト教の修道士となります。

宗教上の戒律をきちんと守り、贅沢や奢侈を抑制した、清貧な聖職者たちです。

彼らはまず、ヨーロッパから中近東へ巡礼の旅に出るキリスト教信徒たちの道中を守る警護団として活躍し、やがては中近東のキリスト教の聖地(特にエルサレム)をイスラム教徒から奪還する軍事集団となりました。

のみならず、そのテンプル騎士団が時代の経過とともに巨大かつ強力な組織になると、ヨーロッパの王様たちからは意外な役割を期待されるようになります。

王家の人間や高級貴族が中近東方面に旅に出る時、ヨーロッパにあるテンプル騎士団の本部にお金を預けておき、中近東にたどり着いたら、現地のテンプル騎士団の支部から同額のお金を「引き出す」、という動きが一般的になったのです。

つまり、ヨーロッパの王侯貴族の事実上の「銀行」として、テンプル騎士団は重宝されたのでした。

なにせキリスト教の戒律という厳格なルールで統制されているから、お金をごまかさないし、イスラム教徒の土地にも基地をおいている為、彼らを頼れば異国でもお金を安全に引き出せるし、その上武装した強者たちの集団である為、異国でトラブルがあった時には助けてもらえますし。

そういうわけで中世の世界ではテンプル騎士団は厚い信頼を得て、金銭的にも強大な財務機関となっていったのでした。

中世の末期には、パリの郊外にはテンプル騎士団の本部が、フランス国王の宮殿すらもしのぐ威容で、堂々と建っていた、と言われています。

フランス国王の大陰謀による謎めいたその最期!

テンプル騎士団を含む十字軍が戦ったヒッティーンの戦い
テンプル騎士団を含む十字軍が戦ったヒッティーンの戦い(原典

栄華を誇ったテンプル騎士団の最期は、思わぬ形で十四世紀初頭に訪れます。

とある十三日の金曜日、パリ郊外にあるテンプル騎士団の総本部に、フランス国王からの使いと名乗る一団がやってきます。

普段からフランス王家とは濃厚な連絡を取り合っていたテンプル騎士団のこと、何の疑問もなく彼らを通したところ、本部の建物に入った一団は武器を取り出し、油断していたテンプル騎士団の幹部から警護の騎士までを一斉に逮捕してしまいました。

同じ日に、フランス中のテンプル騎士団の支部でも同じ事件が起こります。

十三日の金曜日を合図とした全国一斉検挙というのは、明らかに、周到に準備された計画だったと言えますね。

逮捕の罪状は、「テンプル騎士団は実は悪魔崇拝をやっているいかがわしい集団であり、反キリスト教的な団体であった」というもの。

そのような証言が得られた、というのが、時のフランス国王の発表でしたが、誰もそんなことは信じません。

その証拠に、フランス以外のイギリスやスペインにあったテンプル騎士団の支部は無傷で生き残りました(本部を失った為に組織としては壊滅しましたが、少なくとも支部所属の騎士たちの命は保護されました)。

フランス以外の各国の王様達が、動揺することなく「おそらくフランス国王のでっちあげだろう」と判断し、動かなかったためと言われています。

ではどうしてフランス国王は、突然テンプル騎士団を襲ったのでしょう?

どうやらフランス王家をも凌ぐほどの威容を誇っていた彼らの勢いに危機感を覚えていたという動機と、もうひとつ、テンプル騎士団が抱え込んでいた多額の金銭をごっそり徴収する為だった、と言われています。

いずれにせよ、それまでは「キリスト教世界の英雄」として尊敬されていたはずの騎士団が、権力体制によって突然弾圧されて滅ぼされてしまったという事件は、「中世ヨーロッパの終わりと近世の始まり」を象徴する出来事として、ヨーロッパ史では今でも重要視されています。

テンプル騎士団の最後の騎士団長がかけたフランス王家への呪い

火あぶりにされるテンプル騎士団員
火あぶりにされるテンプル騎士団員(原典

逮捕されたテンプル騎士団の幹部たちはひどい拷問にかけられ、ありもしない悪魔崇拝の証拠を「真実」と認めさせられ、それをもって最後には火あぶりの宣告を受けることになりました。

それでもさすがに騎士団長は、最後まで誇り高く、自分たちの無実を訴え続け、牢獄の中でも毅然としていたと伝えられています。

その「最後の騎士団長」ジャック・ド・モレーも、ついに1314年の3月に、火刑場に送られてしまいました。

火刑場が設けられたのはパリのセーヌ河のほとり。

国王を含め、フランス王家の高官が見物する中での火あぶりでした。

ところが、炎が燃え上がる中、ジャック・ド・モレーはこう叫んだと言われています。

「(この陰謀を仕組んだ)教皇クレメンスと宰相マリニーと、そしてフランス国王フィリップは、今年が暮れる前に必ず死の国に呼び出し、神の法廷で裁きを受けさせてやる」と。

さて、騎士団長の処刑の一か月後の4月、教皇クレメンスが突然病没します。

続いてフランス王の宰相のマリニーは公金横領の罪が発覚し、同年に絞首刑に。

そしてフランス国王のフィリップは狩猟中に突然現れた鹿に驚いて落馬し絶命。

騎士団長の予言通り、陰謀を仕掛けたフランス王家側の要人と教皇が、同じ年に相次いで亡くなったことで、フランスの大衆の間では「テンプル騎士団長の呪いは本当だった」と、はますます騎士団の伝説は人気となったのでした。

今でも大衆小説や映画やコミックの定番、「テンプル騎士団の財宝」

このようないわくつきの最期を遂げたテンプル騎士団は、今日でも、ヨーロッパにおける大衆文化やオカルト関連の定番のネタとなっています。

とりわけ有名なのが、テンプル騎士団の財宝を巡る伝説でしょう。

フランス王家が陰謀まで仕組んで狙ったと言われるほどの巨額の財産を持っていた集団となると、当然、民衆は「逮捕される直前に、その財産を秘密の隠し場所に隠しておいたのではないか?」という夢を見てしまうものです。

そこで今でも「テンプル騎士団の埋蔵金」のウワサは、現れては消える格好の都市伝説のネタとなっています。

騎士団長が最後に呪いの言葉を吐いた、という点も、隠し財産のウワサも、どこか「大衆の過剰な期待」が込められているような話で、信憑性は怪しいものと言わざるを得ません。

しかし中世に大活躍した騎士団の遺志が今も何らかの形で生きているという話、確かに、格好よくもどこかコワい夢に満ちた題材であるには違いありませんね。

フランスのパリには、今でもテンプル騎士団のフランス語読みである「タンプル」という知名の町があるそうです。

破壊されたテンプル騎士団の本部があった場所となります。

日本でも「ヨーロッパの騎士団」というものはファンタジーやアニメのモデルによく使われますが、このような「都市伝説化した実在の騎士団」のことに思いを馳せながら、フランス旅行やフランス出張の際にタンプル地区を訪れてみるのも、面白いかもしれませんね。

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1件のコメント

今日はじめて目にしたがやはりすごいね・1789年のフランス革命でフランスの王家が永久に地上から消えたのはこれが原因だね・
それ以来フランスは2流国家になった・

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