前回までで、『ヨハネの黙示録』の概要紹介と、それが最新の聖書研究では「実はローマ帝国に弾圧されている信徒たちを励ます暗号文書であった」という説が有力になっていることを紹介しました。
実際、そのように読み直すと、時の絶対的な権力に対する恐怖と憎悪がないまぜになった、極めて「政治的な文書」であるように、たしかに読めてきます。
暴力的な描写の数々も、まったく背景知識なしに読んだ時よりは、多少は読みやすくなってくるのではないでしょうか。
ところがこの『ヨハネの黙示録』解釈は、そのような学問的な研究が広まって「なるほど」と冷静に議論が進んでいる、というだけでは済んでいません。
特に現代の超大国、アメリカの大衆文化には深く入り込んでいる重要文書なのです。
というわけで今回の記事では、まずアメリカのサブカルチャーでの軽い受容の事例を紹介した後で、同じアメリカ文化への『黙示録』の影響として「笑えない」怖い話を盛り込みたいと思います。
(なお、今回の記事はジョナサン・カーシュ著の『聖なる妄想の歴史』(柏書房)を参考文献として使用しています)
Contents
黙示録を読んでいない人にもその雰囲気を強く認知させた!映画『オーメン』のヒット
『ヨハネの黙示録』を扱ったアメリカのサブカルチャーということでは、なんといってもこれが最大の事例でしょう。
1976年に公開されたオカルト映画、『オーメン』です。
この映画では、直接的に世界の終末やキリストの再臨などが描かれているわけではありません。
前半は、イタリア滞在中に謎めいた超能力(?)を持つ幼い養子を迎え入れたアメリカ人の夫婦が、さまざまな奇怪な現象に巻き込まれていくうち、あどけない幼児が実は悪魔の使い子であることを知るという、核家族を舞台にしたサイコサスペンスです。
そして後半には、物語は世界の存亡を巡る善悪の抗争というスリリングな展開に向かいます。
とはいえ、この悪魔の子をなんとか始末しようとするのは事情を知った主人公とその友人たった二人だけ。
この二人が失敗すれば悪魔の子はすくすくと育っていつか大人になってしまい、世界は終わるだろう、というシチュエーションが、「登場人物は少ないのに世界規模のドラマを背後に感じさせる」という見事な仕掛けになっています。
この映画がよくできているのは、『ヨハネの黙示録』のブキミなところだけをうまく取り入れている点。
細かい部分はすべてカットし、悪魔の使いは「666」の記号を持っている、というところをフォーカスして物語を組み立て、主人公が眠っている幼児の髪の毛をかきわけて頭皮を探ると666という形のアザが刻まれているのを発見するという名場面につないでいます。
前回の記事をお読みになられた方はもうご承知の通り、「666」という数字はそれほど『ヨハネの黙示録』の中心の話題ではありませんし、その意味もそれほど複雑なものではありませんでした。
しかし『オーメン』の印象があまりに強かったために、アメリカ文化の中ではすっかり、「666」は忌避されるべき不吉なナンバーの仲間入りをしてしまったのでした。
そして、以下もまた都市伝説なのかもしれませんが、
- スーパーマーケットで買い物をしたときに、「おつりが六ドル六十六セントになって不吉だから別の物も買ってきてくれ」と店員に言われたというトラブルが発生
- ナンバープレートが「666」となっていた車が「不吉だから」と返品されてきたという事件が発生
などということも、当時のアメリカで起こるようになったのでした。
本当はもっと怖い『ヨハネの黙示録』の大衆文化への浸透
もっとも上述の『オーメン』の例などは、ホラー映画のヒットが生んだ珍現象と解釈すればそれで済む程度のものにすぎません。
もっと厄介な『ヨハネの黙示録』の現代アメリカ文化への影響は、「ハルマゲドン」つまり最終戦争をめぐる言説の混乱でしょう。

『ヨハネの黙示録』において言及される、世界の終末時に行われるとされる「最終戦争ハルマゲドン」というこれまた謎めいたキーワードは、数々の新興宗教やカルト宗教に採用され、世をはかなんでの集団自殺事件や、「最終戦争に備えて」武器を蓄えていた集団と警察との武力衝突など、危険な事件をしばしば引き起こしています。
もっと恐ろしい『黙示録』の影響もあります。
アメリカの大統領すら(人によりますが)、敵国のことを非難したり戦略を考えたりするときに、露骨に黙示録の比喩を使うことがある、という点です。
たとえばかつてのアメリカ大統領がソ連のことを「悪の帝国」と呼んでいたのは、黙示録からの引用だと言われています。
いくら仮想敵国のこととはいえ、「世界の終わりの際に神に滅ぼされる運命の国」とされているキーワードで相手国を名指しするのは、かなり強烈な言葉の選択ではないでしょうか。
またそこから推測されるのは、いわゆる冷戦時のアメリカ軍核戦略に関しても、黙示録の影響があるのではないか、という疑いです。
極端な整理ですが、「たとえ核戦争になっても、アメリカ側が多少でも生き残り、その生き残りが新人類として文明を築いていけばよいじゃないか」という戦略を彼らは冷戦時代に想定していたわけです。
これも黙示録の世界観から無意識に入り込んでいた発想だったのかもしれません(これは『聖なる妄想の歴史』で指摘されている見方であり、賛否両論はあるかもしれませんが)。
いずれにせよ、アメリカのサブカルチャーのような軽いレベルだけではなく、政治家や大企業家の決断のベースにさえも、無意識のうちに「黙示録的な」発想が入っていると仮定すると、これはかなり怖いと感じると同時に、なんとなく現代社会を見る目も少し変わってくるのではないでしょうか?
まとめ:神話や伝説の「正しい背景を知る」ということは物凄く大事なことかもしれないという結論

それにしても、どうして出自もモトネタもこんなにはっきりしているはずの文書が、いまだに現代社会においてこのようなアヤしい影響力を発揮してしまっているのでしょうか?
理由は単純なことだと思います。
やはり『ヨハネの黙示録』が、面白いから、ということだと思います。
著者ヨハネの意図がなんであったにせよ、そのイマジネーションがあまりに豊かすぎて、ブキミながらもどこか強烈な魅力を感じてしまう文書として完成されていることは、違いありません。
ただし、常識的な現代人が読めば「ブキミながらもオモシロい!」と感じてしまう、その「ブキミながら」の部分の感受性が、とても重要なのではないでしょうか。
極端な話、この『ヨハネの黙示録』は、「世界の終わりの時には、自分と自分の仲間たちだけが助かって、普段から自分をいじめていた敵や関係のない第三者は、十把一絡げに苦しみながら死んでいく。自分たちはそれを高みから見届けることができる特権者なのだ」という主張にもとれるわけです。
他にも解釈は可能ですが、上記のように解釈することが「できてしまう」文書であることは、これは動かせないと思います。
まともに影響を受けると怖いところに連れていかれる可能性のあるこの『ヨハネの黙示録』は、いくら面白くとも、やはり「ブキミな本だなー」と思いながら読み進めるのがちょうどいい関係なのかもしれません。
加えて、今回の連作記事の総括となりますが、魅力をはらんでいる神話や伝説こそ、それが「どういう背景で書かれたものなのか」「最新の専門家の研究でどういうことがわかっているのか」といった、できるだけ正しい知識を知っておくことが大事だなと感じた次第です。
少なくともそうしておけば、当の神話伝説が、怪しげな政治団体やデマに引用されても「惑わされない」耐性がつくのではないか。
そんなことを考えての、『ヨハネの黙示録』紹介、四回となりました。
今回で完結です。最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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