ゲーム「Fate/Grand Order」の登場人物紹介、今回は「織田信長」の関連人物紹介の3回目として「明智光秀」のお話です。
FGOにおいて現在仲間キャラクターとして実装はされていないものの、信長関連のストーリーで何度か印象的な活躍をしていたこの人物。
実際の歴史上においても、信長の人生に終止符を打った光秀は、信長を語る上で欠かせない存在の一人です。
今回はそんな彼が辿った人生と、彼が歴史に大きく名を残した事件「本能寺の変」について解説していきたいと思います。
光秀が信長に出会うまで

明智光秀という人物の出生や若い時分については、資料が少なくあまりはっきりとわかっていません。
生誕の地や父親の名前については諸説ありますが、彼の生まれた家系・明智家は「清和源氏(せいわげんじ)」の中の一つである「土岐氏(ときし)」の流れを汲むとされています。
清和源氏とは古い時代に天皇家から分かれた氏族で、傍流ながら由緒ある血を引く一族であった訳です。
生年についても明確ではありませんが、およそ1520年代頃と言われています。
織田信長は1534年生まれなので、少し上の世代になりますね。
彼の最初の主君は美濃国(現在の岐阜県近辺)の大名・斎藤道三という人物でした。
しかし1556年に起きた道三と息子義龍の戦い「長良川の戦い」において、明智家は居城を攻め込まれて一家離散してしまいます。
そんな中で光秀は越前国(現在の福井県近辺)の朝倉義景に助けを求め、以降は彼の下に仕える事になりました。
彼が織田信長と出会うきっかけとなったのは、信長と足利義昭が同盟を結んだ事に関連しての事です。
「織田信長」の解説でも少し触れましたが、義昭は室町幕府の再興のための協力者を求め、幕府の重臣であった細川藤孝を仲介者として信長を頼りました。
信長はこれに応じて手を結んだものの、彼の内心の目的は自身の手による天下取り。
義昭と信長は衝突も多々あり、義昭は一度別の協力者を求めようとします。
その相手が光秀の主君である義景でしたが、当時朝倉家は別の勢力との争いに悩まされており、義昭の要請に応じる余裕はありませんでした。
義景が同盟者となる代わりに、使者として出されたのが光秀です。
義昭のもとにおもむいた光秀は藤孝と手を結び、「信長こそ頼るに値する人である」として、再び義昭と信長の関係を修復するため尽力する事となります。
これが1568年頃のことでした。
義昭から離れ、信長の臣下に

織田信長と出会った光秀ですが、この時点での彼はまだ完全な信長の臣下ではありません。
朝倉家から出向して義昭と信長の仲介役を果たすという、三者に仕えているような立場でした。
先に挙げた義昭の臣下・細川藤孝と協力し、光秀は主に信長のサポート、藤孝が義昭のサポートを担ってその間に橋を渡すという、二人三脚の形で両者を支えていたようです。
光秀と藤孝はこの時を縁に盟友となり、後々に正式な織田家の家臣となる頃まで行動を共にすることとなります。
さて、もともと食い違いのあった信長と義昭の同盟は時を追うごとに亀裂が深まっていきますが、それにつれて光秀と藤孝も最終的にどちらにつくか、という決断を迫られてきます。
本来は共に義昭のために同盟を支えていた2人でしたが、この頃には力を失いつつある室町幕府の義昭より、今まさに勢いづいている信長についていくべきという考えに代わっていたようです。
特に光秀にとって決定打のひとつとなったのは1570年の「金ヶ崎の戦い」。
光秀の本来の主君であり、義昭を支持していた人でもある朝倉義景と信長の間の戦です。
「茶々」の解説ではこの戦いで茶々の父浅井長政が信長から離反したと書きましたが、逆に朝倉家側からの離反者もいました。それが光秀です。
この戦いは「金ヶ崎の退き口」とも呼ばれる信長にとって手痛い敗戦でしたが、その中で信長が生還できた理由の一つが光秀の働きとされています。
こうして朝倉家と義昭に反旗を翻したこと、織田軍の中で功績を残したことが、彼の心が信長に傾く一つの契機となったのでしょう。
信長と義昭の訣別は1573年。
戦いの末に義昭は追放される事になりますが、この頃には光秀は藤孝と共に織田家側についていました。
信長の忠臣・光秀

明智光秀と言えば「信長の裏切者」というイメージが強いですが、信長の臣下であった時期の大部分は献身的に働き、信長に高く評価されていた忠臣でした。
FGOにおいては信長に心酔しているように描かれている光秀の姿も、その働きぶりを見ると納得いくものです。
この時期の信長は天下取りのため、各地を治める名家などへの侵攻や反抗勢力の鎮圧を進めており、戦に次ぐ戦を続けていた時期。
その激戦の中で光秀は多くの戦に参加し、戦果を挙げていました。
代表的なものをあげますと、
- 「高屋城の戦い」(1575年。三好家・石山本願寺との戦い)
- 「長篠の戦い」(1575年。武田家との戦い)
- 「雑賀攻め」(1577年)
- 「信貴山城の戦い」(1577年。松永家との戦い)
- 「有岡城の戦い」(1578年。謀反した荒木村重との戦い)
- 「丹波の国攻略」(1578から1579年)
など、ものの数年の間で枚挙にいとまがありません。
この連戦の最中となる1576年、光秀は重病で数ヶ月生死をさ迷い、更には最愛の妻である明智煕子(ひろこ)が病死するといった不幸にもみまわれましたが、彼はそれらの苦難も乗り越えて務めを果たし続けました。
特に丹波の国の攻略においてはその働きを信長に高く買われており、別の戦「石山本願寺攻め」に携わっていた佐久間信盛という人物に宛てた書状で「光秀は丹波を平定し、天下の面目をほどこした」と絶賛していました。
ちなみにこの書状は苦戦していた信盛への折檻状。
佐久間家は代々織田家に仕えていた家系でしたが、この戦の失態をもって信盛は追放処分とされてしまいます。
片や代々仕える伝統ある家系でありながら追放処分、片や数年前に織田家に仕え始めたばかりでありながら高評価。
信長がしがらみを嫌い合理的な判断を重んじる人であるという事を差し引いても、光秀がいかに高い功績を上げていたかわかる一件です。
しかし、これだけの評価を受けていた時期からわずか3年後、彼は信長を裏切る事となります。
「敵は本能寺にあり」

1582年6月2日。明智光秀が稀代の裏切者として名を残す事となる事件「本能寺の変」が起こります。
事の背景にあるのはまず「備中高松城の戦い」という毛利家と織田軍の戦。
この戦いの指揮をとっていたのは秀吉でしたが、戦いの中で秀吉は信長に援軍を求めました。
要請を受け信長は光秀の軍に出撃を命じ、その後自らも息子信忠と共に秀吉のもとに向かいます。
その道中信長が小休止を取るため立ち寄ったのが「本能寺」。
信頼していた光秀が裏切るという考えは信長になかったのでしょう。
しかしそのすきを突くように光秀の軍は本能寺にいる信長に奇襲をかけ、信長と信忠は自害に追い込まれることとなります。
既にほぼ天下を手中に収めつつあった信長を倒した光秀。
このままなら信長に代わる天下人となれた筈ですがその直後、信長の死を知らされた秀吉は仇討ちをすべく先の戦いを和睦でおさめ、ただちに光秀の元まで進軍します。
信長と出会った頃からの盟友であった細川藤孝も、光秀の突然の謀反を庇いきれなかったのか、信長の喪に服すことに徹し光秀の事は静観していました。
光秀は他に頼れる味方もないまま秀吉と対峙します。
そして「山崎の戦い」と呼ばれる戦いにおいて光秀は秀吉に敗れ命を落としました。
1582年6月13日の事です。
本能寺の変からわずか10日ほどの間で、光秀の天下は終わりました。
光秀はなぜ謀反を起こしたのか?
手厚く評価されていた忠臣であった光秀が突然起こした反逆。
なぜ彼が急にこんなことをしてしまったのかについては、謀反からすぐに死んでしまった為かよくわかっておらず、さまざまな説があります。
代表的なものをいくつか挙げてみましょう。
一つには「怨恨説」。
事件前、光秀は宴席でのミスを大勢の前で信長に叱責され恥をかいた、領地を取り上げられたなどの理不尽な扱いを受けており、それらを恨んでの犯行とするもの。
一つには「四国説」。
光秀は四国を治めていた長曾我部家と縁がありましたが、信長がこの領土を取り上げようとしたため止めようとしたとするもの。
また一つには「足利義昭黒幕説」。
信長と同盟を結びつつも追放され実権を失った義昭ですが、この時点ではまだ生きていました。
光秀は再び義昭につき、室町幕府再興のために信長を討ったとするものです。
しかしどれも確証には欠けています。
「四国説」には長曾我部家が信長の軍門に下る意向を示していたという説もあり、「義昭説」も一度見限った義昭に再びつくというのは疑問があります。
「怨恨説」に至っては、信長が暴行をしたという逸話の多くは後世、江戸時代の書物などで創作されたもので信憑性がありません。
他にも多くの説が考えられていますが、今に至るまでその真相は霧の中。
FGOにおいての光秀は「信長を信奉しすぎるあまり、自分の理想像から外れていく現実の信長が受け入れられず討った」という風に描かれていましたが、真実がわからない以上、その可能性もなくはないと言えるかもしれません。
謎の多い事件「本能寺の変」
明智光秀の軌跡をたどってみた本記事、いかがでしたでしょうか。
「信長を討った裏切者」という強烈な一面のために有名であると同時に、前半生には不明点が多く、また信長のもとで献身的に働きつつ最後には裏切りを起こしたという、謎の多い人物です。
「本能寺の変」は歴史上の大事件でありながら動機がはっきりしないため、日本史上有数のミステリーとも呼ばれています。
さまざまな説が考案され続けているのは、歴史に埋もれた謎という浪漫が人々をひきつけているのでしょう。
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