子供の頃に読んだ神話のイメージを大人になってからも追いかけ続け、ついに考古学史上に残る発見を成し遂げてしまった人物、ハインリヒ・シュリーマンの足跡を追うこの連載。
前回にて、そのシュリーマンがついにヒサルルックにて「トロイアの遺跡」(と思われる城壁)を発見したところまでを追ってみました。
ですが大村幸弘『トロイアの真実』(山川出版社)という本では、このシュリーマンの空前の成功について、以下のような辛い指摘がされています。
(考古学者にとっては)どちらかといえば、発見したあとのほうが発掘者にとっては苦労が絶えない。
考古学の世界とは不思議な世界である。
何かを発見した者に対して、褒め讃えるよりはまず懐疑の眼で接する。
その発見が事実がどうか、あるいはもっと酷いものになれば、それが捏造か否かを論じられることさえある
トロイア発見の成功に到達したシュリーマンを襲ったのは、故郷ドイツの考古学界からのすさまじい中傷でした。
発掘方法のシロウト臭さがますます炎上を招いた?!
実はシュリーマン自身の手際には、たしかに、プロの考古学界の重鎮たちから苦情を言われても仕方のない部分が多々ありました。
彼が結局はシロウト考古学者であったがゆえに、その発掘過程においてプロからすると信じられないような数々の手違いや失敗を犯し、それが後世の研究をむしろ邪魔するような厄介な問題をもたらしてしまったのです。
特にシュリーマンが「早くトロイアの城壁を見つけたい」一心でヒサルルックを掘り進めた為、その際に出た大量の土砂を無造作に捨てていたことが決定的な問題となりました。
その時に捨てた土砂をきちんと調査すれば、もっと重要な遺跡の破片なども入っていたかもしれないのです。
この他にも、シュリーマンはあまりにも「トロイアの遺跡」にこだわりすぎていた為、自説にとって都合のよい発掘物のことしか記録に残さず、シュリーマンの関心を惹かない発見物は乱暴に撤去してしまっていました。
そのうえ、後にこのヒサルルックの遺跡は「いくつかの時代の遺跡が複雑に堆積して遺っているもの」と判明します。
掘れば掘るほど出てくる「さまざまな時代の建築物の跡」を、慎重に「これは〇〇時代のもの、これは〇〇時代のもの」とより分けていかないといかないのですが、シュリーマンの発掘隊の手があまりに乱暴だったために、それらの細かい特定が困難になってしまいました。
これは、「この遺跡はトロイア戦争の時代のものである」と年代特定をすること自体も難しくしてしまい、シュリーマン自身の主張にもマイナスに働いてしまったのです。
前掲書『トロイアの真実』(山川出版社)の著者である大村幸弘さんも、「私がもしたっぷりの時間をとってヒサルルックの発掘事業ができるなら、今後はシュリーマンが捨てた大量の土砂のほうを掘り返して、その中に混じっている破片や石に重要なものが混じっていないかを分析していく調査をしたい」という意味のことを仰っています。
考古学者が一度掘った後を別の考古学者が再調査しないといけないなど、とんでもない効率の悪さですが、シュリーマンの「発掘跡」というのは残念ながらそういう状態のようです。
晩年のシュリーマンの孤独と過剰な正当防衛
満身創痍のシュリーマンを晩年ますます追いこんだのは、シロウト考古学者に大発見をされてしまった既存の考古学界からの過剰な攻撃でした。
心ない中傷の類も大量にありましたが、立派な考古学者の歴々からも、「いくらなんでも世紀の大発見を前に、やり方がズサンすぎたのではないか」と厳しく批判されるいっぽうでした。
シュリーマンはそれに対して、ヒサルルックの再調査・再発掘を繰り返すことで反論を重ねていきます。
ですが、最初はあれほど生き生きとしていた彼の発掘への情熱が、後半生になると「反対者たちを論破するための証拠をなんとしても見つけたい」という依怙地な動機に偏りすぎている印象になってきます。
1890年、シュリーマンはふいに、イタリアのポンペイ遺跡を訪ねます。
ポンペイ遺跡といえば、彼が考古学の道に進む決断をした修業時代に見学に訪れた遺跡であり、のみならず彼にとっては懐かしい父の「古代ローマへの情熱」を思い出させてくれる場所でもありました。
この「最後の旅」の意味はなんだったのか。
彼なりに有名な遺跡を見学し直し、考古学者としての再出発の気概を高めようという気持ちだったのか、あるいは自分の生涯の残り時間が少ないことを悟っての回顧の旅だったのか。
いずれにせよそのイタリア滞在中、シュリーマンは路上で突然卒倒し、急死してしまいました。
結局、シュリーマンの発見した遺跡は何の遺跡だったのか?
それにしても、大きな謎がひとつ、彼の死後に残されてしまいました。
そもそもシュリーマンの発掘した「ヒサルルックの遺跡」とは、けっきょく何なのか、ということです。
巨大な遺跡であることは間違いありませんが、いくつもの層が入り組んでおり、「なんだかよくわからない迷宮のような場所」という印象を与えるものとなっています。
シュリーマンの死から百年以上も経過している今でも、様々な考古学チームが入り、発掘を繰り返してその正体を分析しているというわけですから、とんでもなく興味深いシロモノをシュリーマンが後世に遺してくれた、ということは言えそうです。
ただひとつ、シュリーマンファンにとっても、ギリシア神話ファンにとっても残念なことには、「この遺跡がトロイアのものかどうか、となると、根拠となるものは別にない」という状況です。
これはもちろん、控えめな言い方をしているわけで、「百年以上もの追跡調査をしているのに、決定的な証拠が見つからない」ということは、シュリーマンの味方をして「これこそトロイアである」と主張したい人にとっては、どんどん不利な状況になっている、と言わねばなりません。
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