ロマンあふれる神話・伝承を電子書籍で。

都心でも中世からの呪い?!平将門に関わる伝説

豊原国周の浮世絵「前太平記擬玉殿 平親王将門」
豊原国周の浮世絵「前太平記擬玉殿 平親王将門」

呪いについての伝説は、日本各地にあることでしょう。

中でも有名なものと言えば、将門の首塚かもしれません。

東京都千代田区大手町にあり、首塚の周囲には高層ビルが建ち並び、日本の行財政の中心地でもあります。

ここでは将門の首塚にまつわる伝説を取り上げ、独自の観点から解説していきます。

平将門とはどういう人物だったのか?

月岡芳年の武者絵(『相模次郎平将門(芳年武者無類))
月岡芳年の武者絵(『相模次郎平将門(芳年武者無類))将門の戦いぶりを描いている

平将門は、9世紀頃に誕生し、桓武天皇の血を引く関東豪族の一人でした。

祖父である高望王(たかもちおう)が朝廷から平(たいら)姓を賜り、関東に上総介(かずさのすけ:国司に次ぐ官職)として赴任し、以来関東の地に土着することになりました。

将門の幼年時代に関しては不明な部分が多く、どのように過ごしたのかはっきりとはしていません。

しかし将門が名を馳せるようになった時代の関東では、国司と郡司との対立が激しくなりました。

すでに有力者のようになっていた将門は、国司と郡司の対立に介入するようになりました。

結局、戦いにまで発展し、将門は勝利を得て、関東一円を自ら治めるようになりました。

元をただせば、朝廷からの使いと地元との対立であり、天皇血筋を引く将門であっても、すでに土着豪族の一員でもありました。

関東に新しい国を打ち立てたかのように、朝廷のいただく天皇に対抗し新皇を名乗りました。

朝廷は将門の謀反と考え、討伐することになります。

最終的には関東の豪族と一族の一部の裏切りによって、討ち死にとなりました。

討ち死にした将門は斬首の刑となり、首だけ京都まで運ばれました。

京都までの間、さらし首にされたとのことですが、日本史上では初の試みであったとも言われています。

首塚にまつわる伝説

豊原国周の浮世絵「前太平記擬玉殿 平親王将門」
豊原国周の浮世絵「前太平記擬玉殿 平親王将門」

朝廷によって討伐された平将門は、首だけ京都に運ばれたことになっています。

しかし首塚は京都ではなく、東京(かつては武蔵国)にあることになっています。

一体どうしてなのでしょうか?

将門は新皇を名乗った程、朝廷側の任官等と激しく対立していました。

独立国を目指していた程、朝廷に対する反感を持っていました。

桓武天皇の血筋を引くとは言え、将門自体は土着の身であり、関東が故郷でもあったのでしょう。

こういうことが伝説にも関係しているのかもしれません。

京都まで運ばれた将門の首は、さらし首となりましたが、突然空高く舞い上がり、関東目指して飛んでいったようです。

行き着いた場所が東京都千代田区大手町にある首塚のところでした。

また七条河原で晒された将門の首は、何ヶ月も目を見開いたまま歯ぎしりをし、ある歌人が歌を詠むと、カラカラと笑って稲妻が走り、胴体はどこなのかと叫んでいたようです。

そうして少し経って、白い光を放ちながら東の空へ飛んでいったという言い伝えもあります。

古典で有名な「太平記」にも将門の首の話が出てきます。

将門の首は何ヶ月も腐らず、首を戻してまた戦うことを叫んでいました。

しかしある歌人が首を切られたことを歌に詠むと、カラカラと笑ってそのまま朽ち果てたとあります。

中央官庁をも動かした

将門の首塚は、中央官庁をも動かしたことがあります。

明治維新後、現在の首塚の場所に大蔵省の庁舎を建てました。

数年後に内務省との合同庁舎を建築しますが、関東大震災で焼失してしまったため、新しい庁舎を建てることになりました。

その際、首塚を壊したところ、不吉なことが起こり始めました。

時の若槻内閣の大蔵大臣が今日で言う突然死を遂げました。

また大蔵省の工事部長も亡くなり、首塚の祟りと噂が広がりました。

このため、首塚の鎮魂碑を建てたと言われています。

さらに日米戦争の約一年前に、落雷によって首塚近くの大蔵省の庁舎が消失したことがあります。

占領時代では、GHQが首塚を整地しようとしたところ、ブルドーザーが横転し運転手が亡くなりました。

本当に祟りであるのかどうかは定かではありませんが、こういう不思議なことがあると、中央官庁と言えど何らかの対策を施すのでしょう。

エリートと言えど、畏れを抱くことがあり、社会は人が作っていることの表れなのかもしれません。

もう一つの首塚もある

以上、将門の首塚について、伝説も織り交ぜながらお話して来ました。

行財政の中心地にも呪いにまつわる伝説があり、それだけ日本には古い歴史があるとも言えるでしょう。

しかし将門の首塚は、大手町以外にもあると言われています。

首都圏に位置する埼玉県幸手市でも将門の首塚と伝えらているものがあります。

言い伝えによれば、斬首された将門の首を愛馬が現在の幸手市の場所まで運んで来たとのことです。

石が積み重ねられた質素な感じの五輪塔ですが、幸手市の市指定史跡にもなっています。

大手町と幸手市の首塚は、一体どちらが本物なのでしょうか?

本格的に調査したという情報もなく、おそらく今後も調査することはないでしょう。

いえ、しない方が適切かもしれません。

デジタル時代の世の中とはいえ、素朴とも言える畏れの気持ちは、人にとって大事でもあり、静かに眠ってもらうことが、無念の思いで世を去ったであろう将門への最大の弔いであるのかもしれません。

なお、将門の胴体は茨城県坂東市の延命院というお寺に埋葬されたようです。

今でもお参りすることができます。

この記事をシェア

ロマンあふれる神話・伝承を電子書籍で

ゲームや漫画、映画などエンタメ好きにも読んで欲しい編集部厳選の神話・伝承をAmazon kindleで販売中

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です