人の哀しみが見える「鬼婆伝説」|安達太良と大宮の鬼婆

『百怪図巻』より「山うは」(佐脇嵩之)
『百怪図巻』より「山うは」(佐脇嵩之)

鬼に関する伝説は、日本各地にあり、映画や小説等も多々作られています。

そんな伝説の中で、怖さもありながらどこなく哀しみを帯びているのが鬼婆伝説でしょう。

母であった女性の悲劇でもあり、福島県の安達太良地方の伝説が有名ですが、埼玉県の旧大宮市が発祥との言われもあります。

ここでは安達太良と大宮の鬼婆伝説を取り上げ、解説していきます。

鬼婆伝説とは?

鬼婆伝説は福島県と埼玉県のみに伝わっているものではなく、全国に広がっています。

たとえば青森県でも似たような話がありますが、福島県の安達太良地方に伝わったものが歌舞伎や浄瑠璃となったため、安達太良地方の鬼婆伝説が有名になったと言えます。

鬼婆伝説には共通点があり、かいつまんで言えば、人であった女性が鬼となり、次々に旅人等を襲い、最後に僧侶や武士に退治されるというものです。

勧善懲悪に近い内容ですが、そこにはドラマがあり、なぜ人が鬼になるのかという点が重要かもしれません。

しかも母であった女性が鬼にまでなり、人を襲うようになります。

実際は悲哀を伴った伝説でもあり、だからこそ歌舞伎や浄瑠璃等でも語られるようになったのでしょう。

鬼婆伝説では黒塚がキーポイントでもあります。

黒塚
黒塚(原典

今では黒塚という言葉そのものが鬼婆を表現している面もありますが、黒塚とはお墓を意味しています。

鬼婆が葬られたお墓であり、そうであるため記号のようになっているのかもしれません。

いずれにせよ、全国に広がっている鬼婆伝説の共通点とは、人が鬼になった話であり、次々と旅人等を襲い、最後に僧侶等に退治されるストーリーとなっています。

安達ケ原の鬼婆が有名

鬼婆が身重の女を吊るして解体しようとしている場面(『奥州安達がはらひとつ家の図』、月岡芳年作)
鬼婆が身重の女を吊るして解体しようとしている場面(『奥州安達がはらひとつ家の図』、月岡芳年作)

鬼婆伝説と言えば、安達ケ原のものが有名でしょう。

福島県安達太良地方に伝わるもので、安達ヶ原は安達太良山東側の麓を指しています。

具体的には鬼婆が埋葬された観世音に伝わる話で、書物にもなっています。

紀州の僧侶である祐慶が安達ケ原を旅し、ある岩屋で宿を求めることになりました。

岩屋には老婆が独りしかおらず、喜んで祐慶を招いたようです。

夜であるため薪を取りに行くことにし、祐慶を残して出掛けました。

その際、奥の部屋は決して覗かないようにと言い残していきました。

しかし祐慶が覗くと、たくさんの白骨死体がありました。

旅人を殺して肉を食う鬼婆の噂を思い出し、祐慶は岩屋から逃げ出します。

戻ってきた老婆は、祐慶がいないことに気づき、必死になって追いかけました。

捕まりそうになった祐慶は、菩薩像を荷物から取り出し、経を唱えました。

すると菩薩が表れ、矢を射って鬼婆を仕留めました。

祐慶は阿武隈川の近くに墓を作り、鬼婆を埋葬しました。

その墓が黒塚と呼ばれるものです。

以上が安達ケ原に伝わる鬼婆伝説です。

一見すると、菩薩のご利益を説いているようなストーリーでしょう。

そうであっても、どこかしら人の心の暗い部分が伝わって来るようでもあり、だからこそ長い間人々に伝わり続けたのかもしれません。

現在、黒塚等は観光コースの一つになっています。

特に鬼婆が住んでいたという岩屋は、大きな岩が屋根のようであり、どことなく伝説が信じられるような形をしています。

大宮が発祥という説もある

『画図百鬼夜行』より「山姥」(鳥山石燕)
『画図百鬼夜行』より「山姥」(鳥山石燕)

鬼婆伝説は大宮が発祥ではないかという言われもあります。

第二次大戦前には福島県と埼玉県の学者で論争もあったようですが、大宮は現在のさいたま市に相当し、かつては武蔵国足立郡の一部でもありました。

福島県の「あだちがはら」は「安達ケ原」と書きますが、大宮の方は「足立ケ原」となります。

今でも東京都には足立区があり、東京都も江戸時代までは埼玉県と神奈川県の一部と共に武蔵国でした。

江戸は武蔵国の一地域の呼び名でした。

では、大宮の鬼婆伝説はどういう話なのでしょうか?

端的に言えば、福島県のものとほとんど同じようです。

祐慶という僧侶が出てきて、鬼婆を倒します。

ただし大宮の方では、祐慶が義経の従者として有名な武蔵坊弁慶の師匠とも伝えられています。

五条大橋での戦いを描いた江戸時代の浮世絵(『和漢英勇画伝』より「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ」、歌川国芳画)
武蔵坊弁慶と義経(『和漢英勇画伝』より「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ」、歌川国芳画)

また大宮で伝わる祐慶の方が積極的に鬼婆を倒したという点が違いになるでしょう。

さらに別な形で伝わっている鬼婆伝説もあります。

渡辺綱という武士が人肉を食らう鬼婆の噂を聞きつけ、鬼婆の住む森へ行ってみると、噂の通りでした。

怒った渡辺綱が鬼婆の住処へ忍び込み、簡単に退治したというものです。

ちなみに、先述した福島県と埼玉県の論争ですが、最終的には埼玉県の方が譲ったと言われています。

理由は鬼婆伝説があると野蛮に思われるとのことです。

鬼婆の由来伝説

『百怪図巻』より「山うは」(佐脇嵩之)
『百怪図巻』より「山うは」(佐脇嵩之)

鬼婆伝説は能や謡曲にもなり、単に教訓や英雄譚として人々に訴えたのではないのかもしれません。

実は安達ケ原の鬼婆伝説には、由来伝説もあります。

鬼婆は元々岩手という京都の乳母で、姫をかなり可愛がっていました。

しかし姫は生まれながらにして口が聞けず、占い師に相談したところ、胎児の肝が病気に効くとのことでした。

どうにかしたいと思い旅に出て、安達ケ原にたどり着くと、岩屋を宿にし、妊婦が来るのを待ちました。

そうして身重の夫婦が岩屋にやって来たので、夜に妻の腹をさばき、胎児の肝を取り出しました。

その際、妻の身に付けているお守りを見ると、よく知っているものでした。

岩手には娘がいましたが、旅に出る際、娘を京都に残してきました。

家を出る時、娘にお守りを渡しました。

そのお守りこそ身重の妻が持っていたものでした。

岩手は以後、狂乱状態となり、人から鬼婆に変わってしまったとのことです。

以上が鬼婆伝説の由来伝説になりますが、実に悲劇的でしょう。

救いたいという強い想いが人を殺め、しかもそれが実の娘であったというのが何とも皮肉でもあります。

よくよく見れば、占い師が余計なことを告げなければ、とも言えますが、その時の状況からすれば簡単には責められない、ということは現実にもあることでしょう。

鬼婆伝説は確かに怖い話ではありますが、そこには人の心の善悪や運命のようなものも感じられるかもしれません。

だからこそ、長い間語られて来た、とは言えないでしょうか?

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