殷王朝から始まる中国の歴史を知る上で、絶対に避けられないものがあります。それは「宦官(かんがん)」です。
近年では中国史を扱った漫画やゲームもたくさんありますので、一度は聞いた事がある単語かと思います。
「去勢された人」という漠然としたイメージがつきまとう宦官ですが、具体的にはどんな存在だったのでしょうか?
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宦官とは?

宦官(かんがん)とは「去勢され宮廷に奉仕する男性」のことを言います。
その歴史は古く、殷王朝で使用されていた甲骨文字に宦官の起源を見ることが出来ます。
遺跡から発見された甲骨文字には男性器の切断を示す記号と、羌族を示す記号が確認されています。
これは恐らく、「羌族の人間の性器を切断し、宦官を作っても良いですか?」と占いで神様にお伺いを立てていたのだと考えられます。
かなり古い時代から宦官が作られていたと分かりますが、政治上表に出て来るのは春秋時代になってからです。
この頃になると、悪い宦官だと君主を裏切って殺害したり、太子をたぶらかしたりと目立った行動を取り始めます。
そもそも何のために宦官が作られたのでしょうか?
宦官は最初は「王(神の代理人)に仕える奴隷」として征服した異民族を去勢して作っていました。
甲骨文字の記述がそれを物語っていますね。
これが次第に宮廷や後宮(皇帝専用のハーレム)の雑用、女性たちの管理をさせるために作られるようになっていきます。
後宮にはたくさんの皇帝の妻や妾が暮らしていますので、時代が進むについれてかなり多くの宦官が作られるようになったと言います。
ここで疑問なのが「皇帝のハーレムで働くなら、わざわざ宦官を作らないで女性に働いてもらえば良かったんじゃ?」ということです。
確かに後宮で働く女性もいましたが、女性だけでは力仕事などができません。
当時女性は駆け回って働くことも駄目でしたから、身軽に動ける宦官は重宝されました。
もう一つの理由として、使用人の女性が皇帝と関係してしまったりしては大変です。
また、普通の男性なら後宮に住む皇后や妾とねんごろになってしまう危険性もあります。
こういった危険を回避するためにも、去勢して子作り出来ない男とも女とも言えない宦官が大活躍するわけです。
宦官はどうやって作られたか?
背景 ~なぜ宦官になったの?~
宦官は宮刑という刑罰を受けて去勢させられた人がなっていたものですが、次第に自主的に去勢する者も現れ始めました。
宋代になると「宦官になれば出世できるかもしれない。お金も貰えるし、将来安泰!」という考え方から志願する者が出てきましたが、まだ制限を加えていました。
このような志願者は明代に入り爆発的に増え始めます。
その背景には、当時の男性が抱える将来への不安が見て取れます。
「お嫁さんが欲しいけど金が無い。どんなに働いても貧しいだけ。頑張って勉強して科挙に合格しても、出世できる地位なんてたかが知れてる。お嫁さんも娶れないなら俺のムスコに何の意味があるんだろう。いっそ宦官になった方が豊かに暮らせるのでは?」
そんな思いを持って宦官を目指す男性が増えたのだと言われています。
激痛! ~どうやって宦官になったの?~
では、具体的にどんな方法で去勢をしたのでしょうか?
古代中国の去勢方法は文献に残っていません。
唐代に安禄山が少年を去勢して宦官にした話がありますが、刀で性器を切断して熱い灰を被せて手当しておしまいという、かなり雑で原始的なものです。
恐らく古代中国でもこの話と似たり寄ったりな方法で行っていたのかもしれません。
これからご紹介する去勢方法は、清代において自ら志願して宦官になろうとする者に施された方法です。
宦官になるための去勢手術には銀六両(約3万円)が必要でした。
このお金で宦官手術専門家の「刀子匠(執刀人)」に完全に治癒するまで責任を負ってもらいます。
貧しい人も多かったので、手術料金は給料が出たら払うという方法もありましたが、身元保証人がいなければ絶対に手術はしないという決まりになっていました。
手術はまず、志願者の下腹部と股の上部辺りを白い紐でくくって止血をし、性器の辺りを胡椒湯で三度念入りに消毒します。
そして鎌状の湾曲した小さな刃物で陰茎と陰嚢もろとも切断します。
その後、白蝋の針もしくは栓を尿道に挿入し、傷口を冷水で洗って紙で包みます。
そこから志願者は2時間から3時間部屋の中をぐるぐると歩き回ってから、横になるのを許されます。
手術後だいたい3日間は水を飲んではいけません。
3日経って尿道に挿入した栓を抜いて尿がぴゅーっと出て来たら手術成功です。
もし尿が出なかったら手術は失敗で、あとはただ訪れる死を待って苦しみもがくしかありません。
こんな方法でも成功率はかなりものだったらしく、失敗例はほとんど無かったそうです。
切り取られた性器は絶対に捨てたりしません。
「宝(パオ)」と呼ばれ大事にされました。
残しておく理由は二つあり、一つは宦官になって昇進する時にこの「宝」を見せないといけないからです。
これをきちんと見せないと昇進できません。
もう一つは宦官が死ぬときに棺に入れるためです。
あの世に旅立つにあたり本来の男性の姿になって旅立ちたいという願いが込められていました。
宦官の風貌や性格
宦官の容姿や性格にはかなり特徴があったと言われています。
容姿の特徴は?
服装は灰色や濃紺や黒など地味め。
歩く時は小股でちょこちょこと前かがみで歩くので、遠くからでも非常に目立ちました。
若い宦官は若い女性が男装をしたような見た目ですが、歳を取って来ると男装した老婦人のような不気味さがあったといいます。
また、声も男性特有の低音ではなくなり、独特の耳障りさを帯びて来たそうで、子供の頃から去勢すると女性的な声になると言われています。
髭が生えないという特徴もあり、去勢して数か月でつるんとした卵肌になってしまいます。
また、肥満になりやすく一時的にどんと肥えてやがて肉が落ちて皺ばかりが残ってしまい、だるだるとした締まりのない体つきになります。
こうなると年相応には見えず、ずっと老けて見えて来るのだといいます。
性格の特徴は?
つまらないことでキーッと怒ったり、すぐにご機嫌になってニコニコしたりと、かなり情緒不安定で起伏の激しい性格が特徴です。
強いものに従い、女性や子供や動物を可愛がるといった部分もあったそうです。
また、美点として彼らは非常に素直だったと言います。
盗みを働くことなく貧しいものには義援金として小銭を包んであげたりと慈悲深い一面がありました。
もちろん、宦官の中でも性格はそれぞれであったと思います。
しかし、宦官になる際の壮絶な体験や、宮廷という特殊な場所で出世するために男性性を捨てて生き抜くなかで、常人とはかけ離れた性格を構成していった者も少なくなかったことは、想像に難くありません。
なぜ日本に宦官が生まれなかったのか
去勢された男性を奴隷や使用人として使う文化は、中国のみならずエジプトや古代ローマ、ギリシア、イスラム諸国でもよく見られました。
しかし、中国から様々な文化や法律を受け継いだ日本にはなぜ宦官がいないのでしょうか?
ここで注目したいのが「宦官がどうして作られたのか」というところです。
先述したように宦官は異民族を征服した時に作られていました。
古代日本は出雲族や隼人族、アイヌ民族などがいましたが、根絶やしにするまで征服したなんてことはありませんから、中国のような理由で宦官が作られることもありませんでした。
王様専用ハーレムというものも古代日本では作られていませんので、宦官を作る必要性が無かったのではないかと考えられます。
また、日本で取り入れた唐の刑法には宦官を作り出した宮刑は入っていませんでしたので、そもそも日本に宦官の文化そのものが入って来なかったと思われます。
「江戸時代に大奥という将軍様専用ハーレムがあるじゃないか」と思った方もいるでしょう。
しかし大奥は、三代目将軍徳川家光が男色に熱心すぎて「このままじゃいけない!」と焦った春日局が子作りのために大奥を作ったものです。
将軍といえどもしょっちゅう出入りしていたわけではなく、夜から朝までと時間が決まっており「子作りのため」という目的があって作られた場所ですので、中国の後宮ほどガチガチに管理する必要が無い場所でした。
管理そのものも女性たちだけで充分だったのでしょう。
では、日本では去勢という文化が全く無かったのかと言うと、そうではありません。
存在したところもありましたが、お坊さんが「修行の邪魔になる!」と言って切ってしまうというものでした。
元々日本は性的なものに寛容で、そういった信仰もある国ですから去勢という文化がそもそも合わなかったのでしょうね。
まとめ
中国の宦官について述べてきましたが、いかがでしたか?
男性にとってはかなり痛い話だったと思います。
中国の歴史を紐解く上で、宦官と言う存在は決して避けては通れないものです。
どの時代の本を読んでも、必ず登場しますが、特に明代は宦官パラダイスで、あまりの宦官の多さに食料が行き渡らず餓死してしまう宦官もいたそうです。
出世したくて宦官になったのに、餓えて死んでしまうとは不憫な話ですね。
宦官は清王朝が滅亡して歴史の舞台から降りることとなります。
しかもそれは1911年の辛亥革命から13年間紫禁城に住んでいた皇帝と共にクーデターで追い出されてしまうという哀れな末路でした。
その頃、日本は近代化への道を進んだ明治時代。
宦官という今の私たちからすると驚きの存在が、それほど遠くない時代に生きていたのだと思うと、不思議な気持ちになるのではないでしょうか。
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