【北海道?はたまたモンゴルへ?】有名な義経伝説を追う

鞍馬寺の大天狗僧正房と剣術修行をする遮那王(月岡芳年画)
鞍馬寺の大天狗僧正房と剣術修行をする遮那王(月岡芳年画)

源義経と言えば、幼少の頃に牛若丸と言われ、弁慶との主従関係が有名な武将です。

数々の小説や映画あるいはドラマ等の題材となり、広く知られた偉人でもあります。

人気も高く、各地で多くの人々に支持を受けていました。

しかし悲劇的な最期を遂げたと言われているためか、義経に関わる伝説もあります。

ここでは有名な義経伝説を取り上げ、独自の視点から解説していきます。

源義経の生涯

盗賊の熊坂長範と戦う義経(歌川国芳)
盗賊の熊坂長範と戦う義経(歌川国芳)

源義経は1159年(平治元年)に誕生したと言われています。

父は清和源氏の流れを組む源義朝であり、鎌倉幕府を擁立した源頼朝とは母違いの兄弟でした。

牛若丸と名付けられ京都にある鞍馬寺へ預けられますが、僧になることを嫌がり、現在の東北地方一体を統治していた奥州藤原氏の元へ赴き、旅の途中に元服しました。

奥州藤原氏の下で力を付けていると、伊豆に流されていた兄の頼朝が挙兵したことを知り加勢することになります。

これが有名な源平合戦の始まりであり、義経は軍勢を率い、数々の功績を成し遂げます。

宇治川の戦い、一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いなど、いずれも源氏方の勝利を導きました。

八艘飛びをしている源義経像(壇ノ浦みもすそ川公園)
八艘飛びをしている源義経像(壇ノ浦みもすそ川公園)

しかし源平合戦で平氏を滅亡させた後、兄の頼朝と対立することになります。

朝敵となった義経は追う側から追われる側へ回り、西国から東国そして幼い頃に慣れ親しんだ奥州藤原氏の元へ逃れることになります。

第三代当主であった藤原秀衡は義経を我が子のように扱い、逃げ延びて来た際には厚遇しました。

けれども秀衡が病没し、後を引き継いだ泰衡になると、状況が一変しました。

頼朝から義経を捕まえるようにと再三再四要請がでるようになったのです。

当時頼朝は強大な力を掌握し、平氏の次に奥州藤原氏をも滅ぼすような勢いでした。

奥州藤原氏を滅亡させれば、日本全国を配下に収めることができます。

泰衡はそんな頼朝の力に恐れをなし、結局義経を追討する決断をします。

父であった秀衡は義経との対立を好まず、一体となって頼朝に対抗することを遺言にしていましたが、泰衡は遺言を破る形となったのです。

500騎の兵を率い、衣川の館にいた10数騎の義経たちを襲いました。

義経は多勢に無勢であり、衣川の館で妻や子供たちと共に自害することになったのです。

享年31歳という若さでした。

義経は北へ逃れた

弁慶と戦う遮那王(『月百姿』の内「五条橋の月」、月岡芳年作)
弁慶と戦う遮那王(『月百姿』の内「五条橋の月」、月岡芳年作)

義経伝説の中で有名なものと言えば、義経北行伝説でしょう。

じつは衣川の館で自害せず、現在の北海道である蝦夷地に逃れたというものです。

なぜこのように言われたかと言えば、鎌倉時代の歴史書とされる「吾妻鏡」の記述に疑問が投げかけられたからです。

「吾妻鏡」によれば、義経が自害した後、首実検が行われ、義経の死が確認されたとあります。

しかし自害した日が4月30日で首実検が6月13日であり、40日もの時間が経過しています。

6月と言えば蒸し暑い梅雨の時期であり、首が腐ってしまうことが考えられ、義経と確認できない可能性があるのです。

また首実検は鎌倉で行われましたが、衣川から鎌倉まで当時であっても40日掛かる所ではありません。

上記のようなことから、逃亡するのであれば頼朝の影響力が小さい地域である蝦夷地が適当ではないかと考えられたのかもしれません。

蝦夷地に渡ったその後については、いろいろな説があるようです。

単に子孫を残したというものもあれば、アイヌの王となり江戸時代に反乱を起こしたシャクシャインは義経の子孫であるというものもあります。

現在の北海道には伝説に基づかれた義経神社がありますが、義経が北海道に渡った考古学的証拠は、今でも発掘されていないようです。

果たして将来、証拠が出てきて伝説が事実であったとなるのでしょうか?

21世紀という約千年後の世の中で、義経北行伝説の証拠が見つかれが見つかれば、それこそロマンチックな伝説と言えるかもしれません。

大陸へ渡った義経

チンギス・カンの即位
チンギス・カンの即位

義経北行伝説と共に有名なものが、義経=ジンギスカン説でしょう。

北行伝説と同様、衣川で自害せずに逃れ、蝦夷地ではなく中国大陸へ渡り、モンゴル大帝であるジンギス・カーンになったというものです。

中国大陸へ渡ったのではないか、という伝説は、江戸時代中期に唱えられていたようですが、その延長としてジンギス・カーン説が出てきたようです。

これは時代の流れとも大きく関係しているようです。

江戸時代になると、海外との接触も行われるようになりました。世界は大航海時代の延長として、ヨーロッパの国々が各大陸に進出していきました。

日本もその流れの中に組み込まれ、自然と海の向こうの大陸を意識するようになったのでしょう。

現在ではジンギス・カーンの素姓等が判明しているようで、学術的には根拠のない話とされています。

しかし学術はあくまでも「歴史的な事実」を追うものであり、人々の心情までは考慮しないケースもあるでしょう。

ちなみにジンギス・カーンの孫であるクビライ・カーンは、鎌倉時代末期に日本へ2度も攻め込み、有名な神風によって日本が勝利したと言われています。元寇の役として歴史授業でも習うものですね・

もしジンギス・カーンが義経であれば、その孫がリベンジとして日本へ攻め込んで来たとも言えます。

義経の悲劇と結びつけやすい点でもあるでしょう。

判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉

弱い立場の人に同情する心情を判官贔屓と言います。

これは義経が由来の言葉であり、現在でも使用されているでしょう。

義経は平氏追討の貢献から、朝廷より検非違使に相当する役職を任じられました。

今で言えば警察官僚のようなものでしょうが、判官とも呼ばれ、義経は判官九郎とも言われていました。

判官贔屓の判官はまさに判官九郎が語源でもあります。

頼朝と異母兄弟でありながらも幼い頃に京都を追われ、ようやく頼朝と会うことができ、念願であった平氏追討で協力することができました。

平氏滅亡の戦いで活躍するも、頼朝に追われることになり、平泉に逃げ延びても結局は頼朝の影響力で奥州藤原氏が動き、義経は自害せざるを得ませんでした。

悲劇のヒーローに相応しい生涯であり、だからこそ判官贔屓が生まれたとしてもおかしくはないでしょう。

そこには人々の素朴な心情が反映されているようでもあります。

日本においては長いものに巻かれろいう言葉もありますが、面従腹背という諺もあります。

一概に強いものだけが支持される訳ではない土壌が、歴史的に築かれて来たのかもしれません。

義経の北行伝説もジンギス・カーン説も、人々の素朴な心情が反映され、まさに判官贔屓から生まれたのでしょう。

事実云々よりもこういう人々の心情の鏡がまさに伝説であり、だからこそ事実よりも重要と言えば、語弊があるでしょうか?

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2件のコメント

大陸へ渡った義経の欄に「ジンギス・カーンと言えば、鎌倉時代末期に日本へ2度も攻め込み、有名な神風によって日本が勝利したと言われています。」
とありますが、元寇は孫のクビライ・カーンの時ではないでしょうか。

こちらご指摘いただきましてありがとうございます。
仰る通りですので修正させていただきますmm

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