観音菩薩、正しくは「観世音菩薩」。
仏教で信仰される菩薩の中でも、「観音さま」という名前を聞いた事がある方は多いと思います。しかし、いざどんな菩薩かと聞かれると「?」マークが浮かぶ方も多いのではないでしょうか。
観音さまは道端に祀られるお地蔵様などに並んで広く知られている事は確かですし、広く信仰されるだけの威容を秘めていました。威容とは、一言で言えば「自在な姿を持って人々を救う」というものです。
穏やかな表情で迎えてくれる観音さまが如何なる菩薩であるか、そのルーツなどにも寄り道しつつ紹介していきたいと思います。
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そもそも菩薩とは?
「菩薩(ぼさつ)」とはサンスクリット語のボーディサットヴァという言葉に由来し、「悟りを求めるもの」という意味を持ちます。
この言葉は仏教初期から使われていましたが、その時点では悟りに至る前の釈迦を指す場合に限られていました。普賢や勢至などのような尊格として固有の性質を持つようになったのは大乗仏教の中で変化して以降になります。
仏教においては悟りに至る為の修行を行っている者であり、同時に衆生を救済する為に誓願を立て菩薩道を実践している尊格と定義されています。
本稿で解説している「観音さま」は、この菩薩の一尊となります。
観音さまのホントの名前
日本では「観音」という名前が馴染み深いですが、これはサンスクリット語の名前を漢訳したものです。観音さまの本来の名は「アヴァローキテーシュヴァラ」と言います。なんとなく響きがカッコいいですよね。
この名前は「観察する」を意味する「アヴァローキタ」と「自在天・最高神」などを意味する「イーシュヴァラ」が組み合わさって出来たものであるとされており、「観自在菩薩」などといったようにも訳されます。
7世紀頃にインドに行った僧である玄奘(げんじょう)、つまり「西遊記」でお馴染みの三蔵法師は「アヴァローキタは観、イーシュヴァラは自在の意味だから、光世音、観世音、観世自在などと訳すのは誤りである」と残していたりもします。
よく聞く「観音」という名前は鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の『法華経 普門品(ふもんぼん)』、別名「観音経」とも呼ばれる仏典における「苦を受けた衆生がこの名を一心に唱えれば即座にその音を観じて解脱させる」という記述に従ったとされています。
こういった点から、観音さまは常に地上で苦しむ衆生の事を見ていてくれている菩薩なのです。
日本の神仏習合思想の一つである「本地垂迹」においては、日本の最高神である天照大御神の本地(本来の姿)であるともされていました。
観音菩薩のルーツ
観音菩薩のルーツに関しては所説ありますが、ここでは二つの説を紹介したいと思います。
一つ目は、ヒンドゥー教における最高神にして、数多の姿を以て地上を救うヴィシュヌ神です。ヴィシュヌといえば創造神ブラフマーや破壊神シヴァに並ぶインドの主神の一角であり、「維持」を司る神ですね。

ヴィシュヌが観音菩薩のルーツとして考えられている理由は、この神が観音菩薩と同じく「多くの化身を持つ」という性質を持つからです。
ヴィシュヌ神は本来「太陽の光照作用」を神格化した太陽神であり、インド神話や叙事詩において、「アヴァターラ」と呼ばれる合計10の化身を持っています。一覧は以下の通りです。
- マツヤ(魚)
- クールマ(亀)
- ヴァラ―ハ(猪)
- ナラシンハ(人獅子)
- ヴァ―マナ(小人)
- パラシュラーマ(バラモン)
- ラーマ(王)
- クリシュナ(英雄)
- 仏陀
- カルキ(英雄)
この化身をそれぞれ使い、悪魔などに苦しめられる人々を救い、正義を維持する為に活躍します。
このように、観音菩薩は「三十三身」や「三十三観音」といったように非常に多くの化身を持つと仏典に説かれています。
例えば先程述べた法華経「普門品」には梵王身(ブラフマー)、帝釈身(インドラ)、大自在天身(マヘーシュヴァラ=シヴァ)、毘沙門身(クヴェーラ)など、元来はインドのバラモン教やヒンドゥー教における神であり、仏教に取り込まれた天部の尊たちを自らの化身としています。
玄奘(三蔵法師)もかつてインドに行った際は「観音は祈願者の前に自在天(シヴァ神)の姿となって現れる」という伝聞も残しています。
こういった点から、観音は「変幻自在の救済者」という性質を持つ菩薩であり、バラモン教時代からの聖典である『リグ・ヴェーダ』において賛歌が捧げられていたヴィシュヌにルーツを求める事があるのです。
しかし、観音の梵名のアヴァローキテーシュヴァラを構成する「イーシュヴァラ」がヒンドゥー教におけるシヴァの異名であること、また後世における観音の呼称である「ローケーシュヴァラ」が同じくシヴァの呼び名である「ローケーシャ(世界の主)」と意味が同じであること、さらに後述する観音の変化身の一つである千手観音が「大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)」という経典においてシヴァと同一視されていることなどから、シヴァの影響を指摘する事もあります。
もう一つ、起源として考えられているのはアジア圏の女神です。観音菩薩の化身である准提(じゅんてい)観音や白衣観音といったものが女性尊である事から、観音は元々女性神格であり、それが後に男性神格に変わっていったとされています。
具体的な神名として挙げられるのは、ゾロアスター教における女神「アナーヒター」です。
この説を裏付ける根拠は図像的なポイントにあります。
第一に、観音が女性の象徴である蓮華を持つ事です。第二に観音菩薩が水瓶を持つ事とアナーヒターが水の入った瓶を持つという点でも共通し、そのため同型であるということが指摘されています。
六観音
観音菩薩の化身として有名なものが「六観音」です。この六観音は仏教における六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)で苦しむ人々を救うという思想と結び付けられています。
真言宗では聖・十一面・千手・馬頭・如意輪・准提の六観音が定義されており、天台宗では准提が不空羂索(ふくうけんさく)という観音に変わります。
これらの六観音は十一世紀頃に定められていったとされ、不空羂索を割り当てる六観音は真言宗の六観音の影響を受けて作られていったものであるとされています。
元々は『摩訶止観(まかしかん)』という仏典に説かれる大悲・大慈・獅子無畏・大光普照・天人丈夫・大梵深遠という六観音が重要視されていましたが、これらの六観音の図像は不明であり、初期の天台宗の六観音は真言宗における六観音が変化したもの、つまり真言宗の六観音は天台宗の六観音の本地であるということになります。
軽い解説と共に、六観音について紹介しましょう。
六観音:聖観音

聖観音は先述した通常の観音菩薩を指し、梵名で「アヴァローキテーシュヴァラ」と呼ばれる場合はこの観音を指します。
六観音:十一面観音

梵語で「エーカーダシャムクハ」と呼ばれるこの観音は最初の変化観音であるとされ、多面のものとしても最初の観音です。また、多くの変化観音の基礎とも考えられています。
基本となる聖観音(普通の観音)の変化身(化身)の事。十一面観音や三十三観音、千手観音、六観音などがあげられる。
起源としては十一荒神(エーカーダシャルドラ)という、十一面に多くの腕を持ち、荒神と病気を治す神という二面性を持つ神を仏教化したものとされていますが、如何せんこの神に関しては資料で触れられる事が少ないのが特徴です。
十一面というのは、それがあらゆる方角へと顔を向けるという観音の性質を表現したものともされています。
財や衣服が、未知や病・刀(凶器)・火・水といった難から逃れられるという十種の現世利益である「十種勝利」、死んだ際に仏に会い、地獄に行く事なく成仏できるという来世利益の「四種果報」などの信仰を持っています。
千手観音

この観音はかなり広く知られているのではないでしょうか。
梵名は「サハスラブジャ・アヴァローキテーシュヴァラ」と呼ばれ、不空羂索や十一面に次いで古いとされます。
この「千手」というのは、仏像に見られる多面多臂の解釈を最大限まで広げるという意味を持ち、また千の目で苦しむ衆生を見つめ、千の腕で衆生を遍く救うという観音の慈悲を表現しています。
観音の起源として挙げたヴィシュヌも同様に千という数字が割り当てられる事があり、ヒンドゥー教の聖典である『バガヴァット・ギーター』では
「以前のように、王冠をつき、棍棒を持ち、円盤を手にしたあなたを見たい。まさにあの、四つの腕を持つ姿になって下さい。千の腕を持つ方よ。一切の姿を持つ方よ」(四十六)
と、ヴィシュヌが千の腕を持つという風に言及されています。
互いに救済者としての側面を持つ神(尊)である為、古代インドの神話の中に語られる要素を千手観音は受けているとも考えられており、先述の『大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)』ではシヴァとも同一視されています。
密教の胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)では諸観音を配置した蓮華部(観音院)という部分に描かれており、その中でも千手観音は最高の威徳を持つということで「蓮華王」という名称も持っています。
不空羂索(ふくうけんさく)観音

天台宗における六観音の一角です。「アモガハ・パーシャ」と呼ばれるこの観音は「心願空しからず」という意味を持ち、転じて「この観音を信仰すれば叶わない願いはない」という事を示しています。
名前にある羂索とは仏の持物の一つの縄の事を指しており、元々はインドで狩猟などに使われていました。仏教では衆生の苦悩を救う象徴としての意味合いを持ち、観音がこの羂索を以て誰一人漏れる事なく救済する、ということを意味しています。不動明王が持つ事でも広く知られていますね。
日本では東大寺法華堂の一面三目八臂のものが有名ですが、これは『不空羂索神変真言経』という経典において「不空羂索観音は大自在天のように描け」という記述に由来するとされています。
また、不空羂索は「大可畏明王(だいかいみょうおう)」という明王を化身として持っており、観音と明王の両方の性質を兼ね備えている特殊な観音と言えるでしょう。
馬頭(ばとう)観音

たまに道端に祀られていることがある馬頭観音。
梵名は「ハヤグリーヴァ」とし、「馬の頭を持つ者」の通り、頭に馬の頭を戴いています。また、観音には珍しく怒りを顕わにした恐ろしい表情を浮かべているのが特徴ですね。
馬頭観音の起源は古代インドのヴィシュヌに求められ、元々ハヤグリーヴァはインド神話に登場する悪魔でした。
その神話においては、苦行の果てに馬の頭を持つ者以外には殺されない身体を手にしたハヤグリーヴァが、梵天よりヴェーダを盗み出します。しかしある時、頭を失い代わりに馬の頭を付けていたヴィシュヌによって殺されたと語られており、この時のヴィシュヌを仏教に取り込んだものであるとされています。ガネーシャが象頭になった理由も然り、インド神話も他の神話に負けず劣らずぶっ飛んでいますよね。
この馬頭観音、観音ではなく衆生を教化する「明王」として信仰される事もあり、実際に「馬頭明王」「馬頭大威怒王」といった名前を持っています。
この観音が馬の頭を戴いている理由は、馬が草を食べ尽くすことから煩悩や魔障を打ち破ってくれると考えられていたことに起因します。
馬頭観音の功徳などについては主に「馬頭明呪」という経典に説かれており、その中においては
との記述があり、馬頭観音が聖観音(普通の観音様)の内的な存在であることが伺えます。
また、この経典では馬頭観音に対する呼びかけの言葉として、「輝く花火のアッタハーサ」というものが使われています。このアッタハーサというのはシヴァの異名に由来しているため、馬頭観音もシヴァの影響を受けているということが分かりますね。
図像的には忿怒形に一面二臂のものから四面八臂のものまで存在しています。
如意輪(にょいりん)観音

梵名を「チンタ・マニ・チャクラ」とするこの如意輪観音。
それぞれ思惟や願望、宝珠、円や法輪の意となり、仏教において沢山の宝物を出す如意宝珠の信仰に煩悩を砕破する法輪の性質を加えて観音の化身としたものとされています。
この観音について言及する『如意輪陀羅尼神呪経(にょいりんだらにじんじゅきょう)』という経典が八世紀頃に訳されたことから変化観音の中でも最も遅いとされています。
図像的には奈良時代頃に造られた二臂から平安時代以降の六臂像、また十二臂までバリエーションは様々で、特に平安時代になると真言・天台の両宗派では災害や病気を退ける息災法として信仰されました。
特に十世紀以降の真言宗では如意輪観音の持つ六臂は六観音を象徴し、六道の苦しみを排除して衆生を救うと解釈されていきました。
准提(じゅんてい)観音

六観音の最後は准提観音です。梵名で「チュンディ」と呼ばれますが、この言葉は元来女性名詞であり、通称「七俱提仏母(しちぐていぶつぼ)」とも呼称されます。
経典では観音を冠していないため変化観音に含めない場合もありますが、真言宗の小野流という流派では観音に含められており、今日でも観音の一つに含まれています。
異名に含まれる「俱提」というのは、千万や億といった数字の単位を示す言葉で、七俱提は無限大などの「とにかく大きい」数字を意味していると考えられています。
弥勒菩薩が到来するのは56億7000万年後だったり、インド神話におけるユガ(宇宙期)がトータルで43億2000万年だったりと、数字が非常に大きいということはよくあります。
この観音菩薩は未来に生まれる衆生を哀れみ、かつて自分が悟りを得る為に説いた『仏母准提陀羅尼』という陀羅尼を唱える人を守護してくれる菩薩であるとされます。
他の観音が古代インドに起源を持ち現実的な利益を司る事が多いのに対し、この観音は抽象的な利益を持つという点が特徴的です。
しかしそういった性質からか、六観音の中でもあまり一般の信仰対象として浸透する事はありませんでした。
まとめ
このように、一概に「観音菩薩」といっても様々な姿があります。そして、それぞれが独自の信仰を確立している点が観音菩薩の特徴であり、魅力でもあります。
真言宗や天台宗のような俗に言う「密教」的な観音は、特にインドのヒンドゥー教の神々の図像の影響があったりします。
単に仏像を見るだけでなく、それが形成されていった経緯や込められた思想などを知っていると、仏像を見る時の楽しさがより増すのではないでしょうか。
※参考文献
- 佐藤任『密教の神々 その文化史的考察』平凡社、2009年
- 田中公明『仏教図像学 インドに仏教美術の起源を探る』、2015年
- 佐久間留美子『観音菩薩 変幻自在な姿をとる救済者』、2018年
- 速水侑『観音・地蔵・不動』吉川弘文館、2018年
- 鎌田茂雄『観音さま』講談社、2018年
- 上村勝彦『インド神話―マハーバーラタの神々』筑摩書房、2018年
- 速水侑『菩薩 由来と信仰の歴史』講談社、2019年
- 上村勝彦訳『バガヴァット・ギーター』岩波書店、2020年
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