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【旧約聖書のストーリーその2】出エジプト記~士師記

「モーセ五書」の役割

「旧約聖書」の最初の部分は「モーセ五書」と呼ばれひとまとめにされています。

歴史的には「モーセが書いたから(の割にはモーセの死についての描写があるのですが)」という理由によるのですが、この部分だけでも民族宗教の経典として高い完成度を持っているから、と考えることもできます。

「モーセ五書」の筆頭になる「創世記」は、タイトルのせいか一般には神がこの世を作った時の話、だと思われています。

しかし実態は「ユダヤ民族の始祖であるアブラハムの物語」で、天地創造もノアの洪水もその前フリみたいなものです。

「創世記」の作者が最も力点を置いているのは、「アブラハムが神と契約を行い、ユダヤ民族すべての始祖となった」ということです。

ですからアブラハムと神との契約は、アブラハムの子孫すべてと神との契約になった、とみなされました。

この契約の結果アブラハムとその子孫は、カナンの地を与えられることになったのですが、困ったことにアブラハムの孫のヤコブの代に(手引をしたのはその息子ヨセフですが)一族あげてエジプトに引っ越してしまったのです。

神との契約はアブラハムの子孫の側から一方的に破棄されてしまいました。

アブラハムの一族、つまり後にユダヤ人と呼ばれるようになる人々は、元々遊牧民であったようで、気候がちょっと変動するとすぐにより遊牧に有利な土地を求めて移動してしまいます。

エジプトに行ったのもそうした遊牧民の基本的な属性に従っただけの話でした。

しかし「カナンの地を与える」約束が空文と化してしまうと、ヤハウェとヤハウェを崇めるよう族民に強制していた宗教指導者にとって不都合な事態となります。

要するに彼らの権威が失墜し、一族を指導することができなくなってしまうのです。

というわけで、この後アブラハムの子孫とヤハウェは、「再契約」を結ぶことになります。

旧約聖書の建前では、神とアブラハムとの契約は有効であり、カナンの地から退去したことによって一旦破棄されたとは一言も書いてありません。

ですが客観的に見ればどう考えても契約破棄にしか見えません。

この後の旧約聖書は、神と契約を結んで「約束の地」を得、それを失ってまた再契約をすることの繰り返しとなります。

この繰り返しの過程で、契約の内容が徐々に変化していき、ついには「約束の地」は現実に存在するのではなく人々の心の中にあるのだ、とする分派「キリスト教」を生み出すに至るのです。

「創世記」から「出エジプト記」

「旧約聖書」によると、後にユダヤ人と呼ばれる人たちの祖先は、ティグリス・ユーフラテス川の上流地域、今のトルコの東部に住んでいたようです。

いわゆる「エデンの園」もここにあったようですし、「ノアの洪水」で方舟がたどり着いたと言われるアララト山もこの地域にあります。

それが後にユーフラテス川下流域に移動して行き、アブラハムはここで生まれたとされます。

そのアブラハムが神から啓示を受け、「約束の地」カナンへと移動を開始します。

アブラハムはその地で大きな成功を収め、武力と経済力を駆使してカナンの先住民を追い出し、カナンの支配権を握ったようです。

このアブラハムは、ユダヤ人とすべてのアラブ系民族の祖先とされます。

アブラハムの孫ヤコブは兄エサウと仲違いをして(原因はヤコブの側にありました)、一時カナンを離れていたのですが、外で経済的に成功し、兄と和解してカナンに戻った、とされています。

ただし兄エサウはヤコブの帰還後ヤコブへの復讐を企て、返り討ちにあってヤコブに射殺されたという話も、「創世記」以外の文献に記されています。

この話も元は「カナン離脱→再契約後カナンへ復帰」という「旧約聖書」で繰り返されるパターンの一つだったのかも知れません。

ヤコブはカナンに復帰する際に名を「イスラエル」と改めます。

このヤコブの息子たちを中心とする一族が、後に「イスラエル12部族」と呼ばれるようになるのです。

ヤコブは全部で4人の妻を娶り、12人の息子と1人の娘を得ました。

そのうち正妻ラケルが産んだのは、ヨセフとベニヤミンです。

正妻の産んだ年長の子なので、ヤコブの後はヨセフが継承する……はずだったと思われるのですが、このヨセフが異父兄たちに憎まれ、人買いに売られエジプトに連れて行かれてしまいます。

倫理観が現代とは根本的に異なるとはいえ、酷い話です。

ところがヨセフはエジプトで驚異の出世を果たし、パロ(ファラオ)の宰相となってしまいます。

やがて現在の中東地域全体を覆う大飢饉が発生し、ヤコブとその息子たちはカナンの地を放棄してエジプトに避難します。

ヨセフは当初自分の正体を隠し兄弟たちをいろいろと試したのですが、やがて和解しすべてを受け入れることになりました。

というわけで、「イスラエルとその子ら」はカナンの地を退去し、エジプトに住み着いてしまったのです。

「創世記」のお話はこのあたりで終わり、次の「出エジプト記」にバトンタッチします。

モーセ登場

先に述べたようにイスラエルの12人の息子たちから分かれて「イスラエル12部族」が成立したのですが、12人の息子のうちレビの子孫のみは、祭司を司る家として土地を分与されず、「12部族」には数えられませんでした。

代わりに、ヨセフの子エフライムとマナセがそれぞれの名前を冠した氏族の祖先となっています。

モーセは、このレビ氏族の子としてエジプトで生まれます。

モーセにはアロンという兄と、ミリアムという姉がいたとされています。

モーセとアロン・ミリアムとの関係は、一応実兄弟ということにされています。

なお、モーセの父アムラムと母ヨケベドは甥と叔母の関係でもあったと、余計なことが付け加えられています。

モーセの祖先ヨセフはエジプトの宰相として巨大な権力を握っていたはずなのですが、モーセの頃になるとイスラエルの民たちは没落し、エジプト人から迫害されるようになっていました。

しかし、迫害され、強制労働に従事させられたにも関わらずイスラエルの民たちはどんどん数を増やしたので、エジプト人たちはさらに警戒するようになったとされています。

ついにはパロ(ファラオ)は産婆たちに「イスラエルの民の出産に立ち会い、生まれたのが女の子であれば生かしておいてよいが、男だったら殺してしまえ」と命じるようになります。

しかし産婆たちは神(ヤハウェ)を恐れ、パロの命令に背いて男の子を生かしておいた、といいます。

これを知ったパロは怒ってイスラエルの民に「男が生まれたらみなナイル川に投げ込んでしまえ」と命じます。

モーセはこうした状況の中で生まれました。

モーセの母はモーセが生まれてから3ヶ月間そのことを隠していましたが、ついに隠しきれなくなり、赤ん坊をパピルスで編んだ籠の中に入れてナイルの岸辺のパピルスのしげみに置きます。

ここに偶然パロの娘が通りかかり、赤ん坊を拾って育てたというのです。

ちなみに、赤ん坊に「モーセ」と名付けたのはこの王女でした。

王女は拾った時からこの赤ん坊がイスラエルの民の子だとわかっており、その後赤ん坊にも「お前はイスラエルの民の子だ」と教えていたようです。

成長したモーセは、ある時イスラエルの民が強制労働に従事させられている現場に行きます。

そこで同胞がエジプト人の監督に殴られているのを見、かっとなってその監督を殴り殺し、死体を砂の中に隠したというのです。

別の日モーセはまたエジプト人とイスラエルの民が争っているのを見ます。

彼はエジプト人に「なぜ君はイスラエルの民を殴るのだ」と尋ねました。

「旧約聖書」の記述ですから比較的丁寧なものの言いようになっていますが、実際は鬼の形相で「何故殴る!」と詰問したように思われます。

詰め寄られたエジプト人は「俺のことも殺すというのか」と口走ります。

これでモーセは「先日のあの一件がバレた」と顔を青くしました。

案の定、殺人の一件はパロにも知られており、モーセは殺人犯として処断されそうになります。

彼はパロの元から逃げ出し、ミデヤンという土地に行きます。

そこでモーセは七人の娘たちが、何者かと争っているのを目撃します。

娘たちは羊飼いで、羊たちに水を飲ませようとしていたのですが、同じく水を飲ませようとしていた別の羊飼いの一群の妨害に遭っていたのでした。

モーセは躊躇なく娘たちの味方をして羊飼いたちを追い払い、娘たちの羊に水を飲ませました。

娘たちはミデヤンの街の司祭の子でした。

モーセは彼女たちと一緒に司祭の所に行き、娘たちの一人を妻としてミデヤンで暮らすようになります。

このあたり、「主人公が何かトラブルを起こす」→「主人公が出生地を離れる」→「離れた先でとある女性(一人とは限らない)と出会い結婚」→「妻の父の助力を得る」という「創世記」からの黄金パターンを繰り返しているようです。

こうしてモーセは一旦「待機」の状態になるのですが、パロがさらにイスラエルの民を迫害し、怨嗟の声がヤハウェの耳にも届くようになったので、ヤハウェはモーセに「イスラエルの民を救え」という啓示を与えることになります。

モーセとヤハウェ

ある時モーセが羊の群れを率いてある山のそばに行くと、神が炎となって山の柴の上に出現しました。

「旧約聖書」では「神の御使い」としていますが、ヤハウェそのものが出現したと言っていいでしょう。

ユダヤ教やキリスト教の教えでは、神はすべてを超越しているので直接姿を現すことはなく、必ず「御使い」を通じて預言者たちに話しかけるという建前になっているからです。

ただ、よく読むとどう考えてもヤハウェ本体だろう、としか考えられない記述が多数見つかります。

それはともかく、神が炎となって燃えているのに柴にまったく燃え移らないので、モーセは不思議に思います。

そして「これは見ものだ。じっくり見物しよう」とのんきに炎に近づいていったのです。

そこでヤハウェはモーセに語りかけます。

当然、モーセは驚いて「あなたは誰ですか」と問いかけます。

そこでヤハウェは、「わたしはアブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神である」と名乗ります。

そして「わたしはイスラエルの民の怨嗟の声を聞いたので、お前に彼らをエジプトから脱出させ、乳と蜜の流れ出る地カナンを約束の地として与える」と告げたのです。

モーセは驚いて「わたしは何者でしょう」とヤハウェに言います。

つまり、迫害されている同胞と一緒に生活しているわけでもない世捨て人同然の自分が、民族の指導者として信頼されるのだろうか、と考えたのです。

それに対し、ヤハウェは「わたしは常にあなたとともにある」と告げます。

モーセはさらに「イスラエルの人々が、あなた(ヤハウェ)の名は何というのですか、と尋ねた時、どのように答えたらいいのでしょう」と問いかけます。

これはちょっと解釈の難しい文句ですが、要するにこういうことなのでしょう。

ヤハウェは確かにイスラエルの人々の祖先にあたる数人が信仰していた神でした。

ですがモーセの時代のイスラエルの民すべてが信仰しているわけではなかったのです。

彼らを導いてカナンの地にいざなうためには、まず彼らを熱心なヤハウェの信者にしなければなりません。

だからモーセは、自分の神に現れた神がイスラエルの民にとってどういう存在なのか、納得のいくような説明をしてくれ、と求めたのではないかと思われます。

「旧約聖書」の立場というか、それを記した古代のユダヤ教祭司団の立場からすれば、ヤハウェはこの世に唯一存在する絶対的な神なので、その存在を信じるも信じないもありません。

ですが実際には古代のイスラエルの民の間でも多種多様な神が信じられていたわけで、「始祖アブラハムの神であるから」という理由だけで人々に何かを強いることは難しかったのです。

モーセは自分が絶対神ヤハウェの使いであることを人々に信じられないことを恐れました。

そこでヤハウェは、持っている杖をヘビに変えるという「奇跡」の力をモーセに与えます。

また、モーセが手を懐に入れて出すと、ハンセン病のように真っ白になり、もう一度出し入れすると元に戻るという奇跡、ナイルの水を乾いた土地に流すと、それが血になるという奇跡を起こす力も与えます。

それでもモーセは尻込みし、神にこの役目を辞退したいと伝えます。

「自分以外に適任者はいないのか」と。

神は怒って「お前には兄アロンがいるだろう。アロンにわたしの言葉を伝えろ。そうすればアロンがその言葉を民に伝えるだろう」と言いました。

唐突にモーセの兄アロンの名が飛び出してきました。

ここにもちょっと補足説明が必要でしょう。

「旧約聖書」の物語の最初の部分を示したグループは、著者がモーセだという言い伝えがあるので「モーセ五書」と呼ばれます。

ところが、このモーセ五書はそれよりも後の時代について記した文献よりも、書かれた時期が新しいようなのです。

例えば「創世記」の後半から「出エジプト記」にかけては、イスラエルの民の活動地域はエジプトとなっていますが、それがエジプトのどの王朝の時期に相当するかはっきりしません。

ファラオたちも「パロ」と称号で呼ばれるだけで、具体的にどの王であったか述べられていないのです。

しかし「モーセ五書」よりも後になると、比較的どの時代のことであり、周囲の王国ではどういう王が君臨していたか、ということがかなり詳しくわかります。

要するに、「モーセ五書」よりも後の文献の方が、史料としては信用できる、ということなのです。

「モーセ五書」には、その後の信頼性の高い諸文献と矛盾する内容も多々含まれています。

これらの矛盾は、ずっと後の時代の人物が古いユダヤ教の信仰の実態を知らずに、想像で書いたから生まれたものだ、と主張する学者が増えてきました。

聖書に限らず、さまざまな地域で生まれた神話関連の文献において「天地創造」の部分は神話体系全体からすれば比較的後になってから書かれる傾向があります。

逆にいうと、「聖書」においてもそのパターンからは逃れることができなかった、ということになるでしょう。

さて、「出エジプト記」の執筆時期が比較的新しくても、そのベースになった伝承は古くから存在していたと思われます。

そちらの伝承では、どうやら「出エジプト」の主役は実はモーセではなくアロンだったのでは、と考える人がいるのです。

言ってみれば、モーセは出エジプトの原型になった事件を「旧約聖書」にはめ込むために後から創造された架空の人物だという可能性も、なくはないということです。

唐突にアロンの名が出てくるのは、こうした理由が底にあったからではないか、と思われます。

エジプト脱出

嫌がるモーセにエジプト脱出のリーダーの地位を押し付けたヤハウェは、続いてモーセの兄アロンのところに出現します。

こちらへの命令は簡単です。

「弟モーセに会い、すべてモーセの言うとおりにしろ」。

これだけでした。アロンはモーセに会い、シンプルにその通りします。

続いてアロンはイスラエルの民の指導者たちにモーセを引き合わせます。

モーセはそこで「神の奇跡」を行い、自分の背後にはヤハウェがいるのだぞ、ということを指導者たちに信じさせました。

モーセはアロンと指導者たちを引き連れてパロの元に行き「イスラエルの民をエジプトから去らせて欲しい」と頼み込みます。

「わたしたちの神がそう言ったから」

パロはモーセに返事をしました。

要約すると「なんでわしがイスラエルの民の退去を許可せねばならんの(貴重な労働力を…)。ヤハウェって誰? そんな神わし知らんぞ」という感じです。

エジプトには膨大な数の神がいて、それぞれを信じる神官団が激しい抗争を繰り広げてきました。

ですから名のしれた神官団の拝啓もないぽっと出の神の言うことなど聞く理由がない、としたパロの発言はそれなりに筋の通ったものでした。

モーセは「それなら奇跡で信じさせるしかない」と思い、杖をヘビに変えるという例のアレを行いました。

しかしこの奇跡を見てもパロは平然としています。

パロは王室のお抱えの魔法使いたちを呼び出します。

やってきた彼らは手に持った杖を次々と投げ、それらはすべてヘビに変わってしまったのです。

これらのヘビは、アロンの杖が変化したヘビに全部飲み込まれてしまったので、魔法勝負は一応アロンとモーセの勝ちということになりました。

が、自分のところの魔法使いでもできる技を示した程度では、パロがモーセを神の使いだと信じることはできません。

もしモーセが神の使いだったとしても、その神は大した能力を持ってはいないどこかのローカルな神だろう、程度にしか考えなかったでしょう。

そこでモーセは、次なる奇跡を行うことにします。

モーセがヤハウェから与えられた奇跡の力は三種類で、最初がヘビ、次が手、最後が川の水を血に、というものでした。

ところがモーセは手を懐に入れて変化させるという奇跡を省略して、最後の大技に挑みます。

ヤハウェの最初の話では、「ナイルの川の水を乾いた地にまけば、それが血になるよ」というものでしたが、ここでは内容が微妙に変わっています。

モーセが杖でナイルの流れを叩くと、川の水が血に変わり、悪臭を放ち、魚が死に絶えたのです。

エジプト人たちは水を飲むことができなくなってしまいました。

神の偉大さを示す奇跡というより、ほとんどテロ行為です。

しかしこの有様を見ても、パロの心は動きません。

ちなみに、「エジプトの魔術師たちも同じことをした」という一節がちゃっかり書き込まれています。

モーセとヤハウェが共同で示した渾身の大奇跡だったはずなのですが、パロからすれば「やっぱり大したことない」ものだったようです。

その割に解呪できていませんが。

ナイルの水が飲めなくなってから7日が経過しました。

アロンとモーセはパロのもとに出かけていき、3つめの奇跡を示します。

今度こそ懐に手、ではないかと思われたのですが、モーセが示したのはヤハウェとの打ち合わせにあったものとは全く違っていて、ナイルの川の水を打って無数のカエルを呼び出す、というものでした。

エジプトは瞬く間にカエルで埋め尽くされます。

パロの魔術師たちも川の水を打ってカエルを呼び出します。何を考えているのでしょうか。

国がカエルだらけになると、さすがのパロも音を上げます。カエルが嫌いだったのでしょうか。

パロは「わかったイスラエルの民を退去させてもいいからこのカエルをなんとかしろ!」と叫びます。

ところが、アロンとモーセがカエルを死滅させると、パロは前言を翻します。

そこでアロンは杖で地を叩いてブヨを発生させ、エジプト人とその家畜を襲わせます。

何を考えているのかもう理解不能なエジプトの魔術師たちは、今回も同じことをしようとしましたが、どういうわけかアロンと同じようにブヨを発生させることができませんでした。

奇跡を模倣することができなかったので、魔術師たちは「これは神がやったことです」とパロに伝えましたが、パロはイスラエルの民の退去を認めません。

そこでヤハウェは、モーセを介して「次はアブで責めるぞ」と脅しをかけます。

脅しただけでなく実際にアブをけしかけたのですが、パロはこれでも屈しません。

パロとヤハウェの根比べはさらに続きます。

ヤハウェはエジプトに疫病を流行らせ、家畜を全滅させます。

続いて、アロンとモーセに、「煤(すす)をまき散らせ」と命じました。

アロンとモーセが言うとおりにすると、煤は細かいちりになって人や獣に取り付き、うみの出る腫れ物となりました。

パロはまだ屈しません。というか、ヤハウェの言によれば「わたしがわざと彼をかたくなにさせたのだ」なのだそうです。

その理由は「わたしの名が全地に宣べ伝えられるためにほかならない」のだとも言っています。

次にヤハウェはエジプト全土に雹を降らせます。

ただの雹ではなく、当たったら人や獣は死に、木の枝が折れるほどのものでした。

ここでパロはアロン・モーセと交渉をします。

パロは「イスラエルの民というが、どの程度まで連れて出ていこうというのか」。

アロンとモーセは「全部だ」と答えます。

パロは「成人男性だけなら許してやってもよかったが、全部となれば許可することはできん」と言い、交渉は決裂しました。

そこでヤハウェはいなごの群れをエジプトに送り込みます。

それでもパロが屈しなかったので、今度は3日の間エジプト全土を暗闇で覆いました。

ここでパロは少し譲歩します。

「人は全部連れていってもいい。だが家畜は置いていけ」。

エジプト人の家畜はすでに全滅させられていましたが、イスラエルの民の飼う家畜は生き残っていたのです。

だから退去料としてそれを支払って欲しい、といういかにも政治的な駆け引きでした。

ですがアロンとモーセは政治家ではなく宗教家ですから、これも拒絶します。

交渉はまた決裂し、ヤハウェは次なる災いをエジプト人たちに及ぼします。

災いを振りまく前に、ヤハウェは不思議なことをモーセに命じました。

「民の耳に語って、男は隣の男から、女は隣の女から、それぞれ銀の飾り、金の飾りを請い求めさせなさい」というものです。

これはイスラエルの民に対し、「エジプト人から金銀財宝を借りちゃえ」という意味になります。

エジプト脱出の日が迫っているので、思いっきり借金してそのままトンズラしろ、とけしかけているのです。

ただし「出エジプト記」の著者(つまりモーセ?)は、これは借りパクではなくエジプト人から好意の印として受け取ったものだ、いけしゃあしゃあと述べています。

さてこういうトンデモな命令をイスラエルの民に下した後、ヤハウェは最後の災厄をエジプト人にもたらします。

それは、エジプト中の「初子(ういご)」を殺して回るというものでした。

ヤハウェというか、イスラエルの民は何かというとこの「初子」にこだわります。

ちなみにこの大災厄をエジプトに下す前日、ヤハウェはアロンとモーセに「この月の10日に家1軒ごとに1頭の子羊を犠牲に捧げてそれを食え」と命じます。

これが「過ぎ越しの祭り」の起源です。

「出エジプト記」12章には犠牲の選び方から料理の仕方、一緒に食べるパンの種類に至るまで、こと細かに書かれています。

どうして「過ぎ越し」の祭りなのかというと、このお祭りをすることにより、ヤハウェの災厄がイスラエルの民の上を「過ぎ越し」て行き、エジプト人の上にだけ降りかかるからだ、とヤハウェは説明しています。

「出エジプト記」の記述を読む限り、エジプト人の初子を殺して回ったのはヤハウェ(より厳密に言うと神の御使い)ということになっています。

しかし、原型になる事件があったと仮定した場合、その実行犯はヤハウェを信仰する教団の関係者であった可能性が高いと言わざるを得ません。

現代人の目には、ナイルの水を血に変えた後のさまざまな災厄は、神が人間に下した懲罰というよりテロ行為にしか映りません。

ただし、古代の人々にとっては、「敵に容赦なく信じるものだけ救ってくれる頼もしい神」だと感じられたのでしょう。

しかし、よその地域の神話には、ここまで徹底的に敵を痛めつける神はほとんど登場しない、というのも事実です。

十戒

国中の初子を殺されるに至って、ついにパロは屈服しました。

パロは無条件でイスラエルの民がエジプトを退去することを認めます。

アロンとモーセは、イスラエルの民を率いてエジプトからカナンに向けて旅立ちました。

イスラエルの民を退去させるためにパロと交渉していたのはおもにアロンであった、と読めるのですが、このあたりからモーセがメインの指導者として描かれるようになります。

ただ、イスラエルの民はまだモーセに心服していないようで、事あるごとに不平不満を口にします。

渋々イスラエルの民の退去を認めたパロですが、すぐに気が変わって戦車隊を繰り出し、イスラエルの民の後を追わせます。

戦車と言ってもいわゆるパンツァーではありません。馬に引かせる二輪の馬車の方です。

戦車隊が後方から迫ってくる、という噂が流れると、イスラエルの民は動揺します。

そしてモーセに「なんでこんな所に連れてきた。荒野で死ぬよりエジプト人に仕えていた方がずっとマシだった」と訴えるようになりました。

金品借りパクしてるんで、エジプトに戻ったら酷い目に遭うこと間違いなしなのに実に勝手な言い分です。

そこでヤハウェは、モーセに新たな奇跡を起こさせます。

「出エジプト記」のクライマックスシーンである「紅海引き裂き」です。

戦車隊があと少しでイスラエルの民の最後尾に追いつく、という所で、モーセが杖を振り上げると、目の前の紅海が真っ二つに割れて中心に乾いた道が出現します。

イスラエルの民がその道を通過すると、海は元に戻りエジプトの戦車隊を飲み込んでしまった、というのです。

こういうことをやらせると実に容赦のないヤハウェは、水から逃れようとするエジプト兵がいたらそれを水に投げ込み、ひとり残らず溺死させてしまいました。

その後、イスラエルの民がたどり着いた紅海の対岸に水死体を多数打ち上げさせたのです。

イスラエルの民は、ヤハウェがいかに恐るべき神であるかを骨の髄まで思い知り、その使いであるモーセに服従するようになったといいます。

しかしそれでも、イスラエルの民はちょっとしたきっかけがあると、モーセへの不信を蘇らせ、さまざまな不満を漏らすようになります。

それは大概の場合、食べ物や飲み物に関することでした。

単に「腹が減った」と言われるだけならいいのですが、「こんな目に遭うならエジプトで平和に暮らしていた方がよかった」という余計な一言を付け加えるので、モーセとしてはたまったものではありません。

モーセは神に祈り、苦い水を甘くしてもらったり、せんべいに似た不思議な食べ物を発生させ、それを民に配って食べさせたりしました。

なお、この不思議な食べ物は「マナ」と呼ばれています。

カナンの地が近づくと、イスラエルの民は先住民たちと戦闘を行うようになります。

ここで軍事指揮者として、ヨシュアという人物が頭角を現してきます。

それと同時に、イスラエルの民を統治する行政組織のようなものもできてきました。

当初、モーセが集団の細かいことまで全部ひとりで決めていたのですが、モーセのしゅうとが進言したことにより、十人長・五十人長・百人長・千人長が決められ、細々としたことは彼らが決するようになったと言います。

事態がこうなってくると、モーセがする仕事は、神と自分の権威をより高め、配下の組織が円滑に動くように仕向けることがメインになります。

モーセは神に命じられたとしてシナイ山に登りました。

そしてシナイ山の上でモーセが授けられたのが、有名な「十戒」です。

その内容は、神と人との契約というよりは、宗教的指導者が民を率いるために民に誓わせる約束といった感じになっています。

最初の方では、ヤハウェは「自分以外を神として拝むな」「偶像を作るな」と言っています。

「偶像を作るな」は、「神と触れ合いたければ宗教指導者を仲介とせよ」というのとほぼ同じ意味です。

像を作られ個人や一般家庭レベルで神を信仰されると、指導者としては困るのでこういう規定を作ったのでしょう。

次に、「一週間のうち働くのは6日まで。7日目は安息日として休め」と命じています。

行動と休息のサイクルを定め、民の行動を把握しやすくするのが目的でしょう。

残りはどの文化圏でも常識とされていることです。

「父母を敬え」「人を殺すな」「特定のパートナー以外と性的な関係を結ぶな」「盗むな」「嘘をつくな」「隣人から貪るな」などがこれに相当します。

最後については、モーセに率いられた集団はエジプトから退去する寸前にエジプトの隣人から思いっきり貪っているので、「お前が言うか」と突っ込みたくなるところですが、モーセ集団からすると異教徒は隣人ではないからセーフ、といったところなのでしょう。

ついでに言うとモーセ集団はここまでさんざん人を殺してますし、これからも殺していきます。

「十戒」のルールが適用されるのはあくまでもイスラエルの民の集団内部のことであり、異教徒は適用外であったことは、しっかり抑えておく必要があります。

その後の「出エジプト記」

「出エジプト記」は全部で40章あり、モーセが「十戒」を授けられるのは全体のちょうど真ん中に当たる第20章です。

21章から後は、モーセと彼が率いる集団の話は一旦棚上げになり、モーセを介して神がイスラエルの民に示した「守らなければならない掟」が延々と続くことになります。

「物語」としての「出エジプト記」は、第20章でひとまず終わったと言っていいでしょう。

実は「掟」の羅列は「出エジプト記」だけでは終わりません。

「出エジプト記」に続く「レビ記」は最初から最後までこんな感じです。

シナイ山で「十戒」を受けた後のモーセと彼の率いる集団についてのお話は、「モーセ五書」のうち四番目である「民数記」に引き継がれます。

「民数記」でも、主に語られているのは各部族の人数がどれほどであり、その指導者が誰であったか、ということです。

中にはモーセが「イスラエルの民全部の面倒を見ろだなんて負担が重すぎます」とヤハウェに愚痴ったり、モーセの兄と姉であるアロンとミリアムが「どうして神はモーセの所にだけ現れるのか」と愚痴ったりする場面も出てきます。

「出エジプト記」からの通しのイメージでは、モーセはあくまで「神の声を直接聞けるもの」であり、イスラエルの民を率いていたのはアロンとミリアムの二人であったように見えてきます。

日本でいうと、邪馬台国の卑弥呼とその弟との関係が近いのかも知れません。

卑弥呼は鬼神に仕えることをもっぱらとしており、実際の邪馬台国の政治を司っていたのは弟であったということが示唆されています。

同様に、モーセも神の声を聞くことができるシャーマンで、その託宣を元にアロンとミリアムが実際の行政を行ったのではないか、と推察できなくもないのです。

エジプトからカナン近辺への移動の間、モーセは一時的に政治的な指導者にもなったように読み取れます。

しかしカナン近辺に到着してからは、イスラエルの民を軍事的に組織化することばかりに熱をあげ、軍事的にも政治的にもこれといった目立つ行動をしていません。

モーセにはこれらの才能はあまりなかったのではないかと思われます。

組織化されたイスラエルの民が軍事的行動を起こすのと同時に、ヨシュアという人物がクローズアップされてきます。

ヨシュアは12部族のうちエフライム族の出身で、父の名をヌンと言います。

はじめホセアと名乗っていましたが、モーセによってヨシュアと改名させられました。

ちなみに、ずっと後にキリスト教の開祖となった「ナザレのイエス」の本来の名もヨシュアです(イエスはヨシュアのギリシア語読みが起源)。

カナンの地を攻略するにあたり、モーセはヨシュアを含む12部族から斥候を選抜し、偵察を行わせます。

斥候たちは偵察から帰った後、「カナンの地はまことに豊かで、まさに乳と蜜の流れ出る地である」と報告します。

ただし、「兵は強く地は堅固なので、わたしたちはこれを攻め取ることはできないだろう」とも言いました。

ここでイスラエルの民はまた不平を口にします。

「結局カナンの地に入れないんじゃないか。 それならエジプトで暮らしていた方がよかった」と、いつものセリフが飛び交います。

ここでユダ族のカレブとヨシュアとが、「主がよしとされれば、その地を得られるだろう」と積極的な意見を述べましたが、すっかり後ろ向きになってしまっていたイスラエルの民は、あろうことかカレブとヨシュアを石で撃ち殺そうとしました。

この時ヤハウェがモーセの口を借りて、イスラエルの民一同に話しかけます。

その最初の部分は「どこまでわたしを信じないのだ」という愚痴でした。

続いてヤハウェは、「わたしを信じなかったものをすべて殺す」と宣言します。

そしてカナンの地を偵察に行った斥候たちは、カレブとヨシュア以外すべてカナンの地に入ることはできないだろう、と付け加えました。

この後しばらくヤハウェは、イスラエルの民の敵を懲らしめるのではなく、自分の言うことを信じないイスラエルの民に鉄槌を下すことに熱中してしまったようです。

モーセの兄のアロンも、ふとしたことをヤハウェに咎められ「カナンの地に入ることができずまもなく死ぬであろう」と宣告され、亡くなってしまいました。

さらに「エジプトで暮らしていた方が……」と呟いた民に火のヘビを送り込み、片っ端から咬ませて殺してしまいます。

怯えた民がモーセを通じてヤハウェに訴えると、ヤハウェはモーセに「青銅で大きなヘビを作って竿の上にかけろ。 そのヘビを仰ぎ見たものは咬まれた傷が癒えるだろう」と伝えました。

そうこうしながらイスラエルの民は周囲の民族に対して攻勢に出るようになります。

彼らはさまざまな部族に対して勝利しますが、勝利の後は先住民を残らず追放したり、皆殺しにしたりとかなり酷いことを繰り返していたようです。

やがてイスラエルの民は、ヨルダンの街エリコ(ジェリコ)に迫り、その手前にあるモアブの平原に陣を張ります。

モアブの王バラクは、イスラエルの民がこれまで周囲の異民族に対して何をしたのかよく知っていたので、恐怖を覚えます。

バラクはユーフラテスのほとりに住んでいた、バラムという呪術師を招き、イスラエルの民を呪ってもらおうとします。

しかしヤハウェがバラムのもとに出現し、彼を脅迫します。

最終的にバラムはバラクの所に行っていい、ということになりましたが、その際ヤハウェは、「自分が指示した通りの行動しかしてはならない」と告げます。

バラクの元に行くことを許可したはずなのに、バラムが言った通りの行動を取ると、ヤハウェはなぜか腹を立てます。

そして神の御使いを派遣し、またバラムの乗っていたロバを操ってバラムに嫌がらせをします。

剣を持った神の御使いの姿に恐れをなしたバラムは、「このまま帰りましょうか」とヤハウェに訴えますが、ヤハウェはそれを許さず「行ってわたしの言ったとおりに振る舞え」と命じました。

バラクの所に行ったバラムは、バラクの期待を裏切り、イスラエルの民を呪うのではなく祝福を与え続けます。

バラムは三度までこれを繰り返した(ちなみにバラクからの報酬はしっかり貰っています)ので、バラクはもういい加減にして帰ってくれ、と涙目で頼み込みます。

バラムはモアブの民を見舞う不幸な未来について語り(ぶっちゃけ言って呪ってます)、自分の国に帰って行きました。

バアル登場

さてイスラエルの民ですが、かなり長期に渡ってモアブに陣を張り、バラクの軍勢と睨み合っていたようです。

長きに渡る対陣に飽きたのか、イスラエルの民の兵士たちがモアブの女性たちにちょっかいを出し始めました。

「旧約聖書」ではモアブの女性たちがイスラエルの兵士たちを誘惑したかのように書かれていますが、実態は多くの戦場でそうであったように逆でしょう。

ただしモアブの女性たちはイスラエルの兵士をそう嫌ってはいなかったらしく、食事を振る舞ったりしていたようです。

その結果、彼女たちが信じていた神の信仰がイスラエルの兵士たちにも伝播していきました。

この神は、「ペオルのバアル」と呼ばれます。

カナンの地を含む地方で広く信仰されていた豊穣神「バアル」の一バリエーションです。

ちなみにこの「ペオルのバアル」がその後訛って「ベルフェゴール」になったと言います。

ヤハウェは激怒してモーセに「邪神の祭礼に参加したものを全員殺せ」と命じます。

モーセはこれを各部族の長に伝えますが、その後部族長たちとともに集会所で泣いていました。

殺さなければならない人数があまりに多かったからでしょうか。

また、この時イスラエルの民の間に疫病が流行っていました。

「民数記」にははっきり書かれていませんが、「邪教」を崇拝した罰としてヤハウェが流行らせた可能性が高いと思われます。

モーセと族長たちが泣いていた集会所に、ひとりのイスラエルの民が、異教の信者である娘とともに入ってきました。

これを見たアロンの孫にあたるビネハスという男が槍を取り、まず男を殺し、次に女の腹に槍を突き立てて殺しました。

これにより疫病の蔓延は止みましたが、この一連の事件で2万4000人が命を落としたと言います。

これが、「民数記」第25章までの内容です。

「民数記」は全部で36章あるのですが、その後27章でモーセの後継者としてヨシュアが指名された以外はほとんど物事の進展がなく、だらだらとモアブに滞陣していたようです。

モアブ滞陣中、やっていたことはと言えばヤハウェに忠誠を捧げないイスラエルの民の粛清の連続だったように見て取れます。

「民数記」に続く「申命記」は、全編が死を目前にしたモーセによる遺言のような書です。

前半部分では、エジプトを出てからカナンを目前にするまでの40年がダイジェストで語られます。

中間部分は「十戒」を中心とする、ヤハウェがモーセを通じて定めたとする立法部分の繰り返しです。

その後、モーセは各部族の長たちに最後の説法を行いました。

その際強調したのは、「お前たちはこれまでも何度も神に背き、その罰を受けてきた。自分が生きている間でさえこれだから、自分が死んだらどうなることか」ということです。

120年も生きてきて大往生する寸前でも、これです。

徳川家康が裸足で逃げ出すぐらいの猜疑心の塊に見えるというのは、偏見でしょうか。

ともかくモーセは、「神を裏切ったら凄まじい報復を受ける」ということを自分の率いた民たちに叩き込みました。

その結果、「最後の審判」の概念が成立し、その様子を描いた「黙示録」が数多く作られ、「旧約聖書」の一ジャンルを形成します。

「申命記」第34章ではモーセの死と、その葬礼とヨシュアが後継者となったことが語られます。

「申命記」はモーセが書いたと言われる「モーセ五書」に含まれているので、モーセの死後のことが書かれているのはおかしいではないか、という指摘が古くからありますが、この一章だけはモーセではなくヨシュアが書き加えたのだ、というのが現在のユダヤ教団やキリスト教団の公式の見解のようです。

現代的な視点から見れば、モーセはかなり危険な人物であるように思われます。

まず彼は、エジプト人に半ば同化しかけていたイスラエルの民をヤハウェ信仰集団として組織し直します。

その際取った手段はというと、人々に恐怖を与え続けて思考力を奪い、ヤハウェに絶対的忠誠を誓わせる、というものでした。

さらにその後、教団に対して疑問を持つものが出ると、徹底的に弾圧しています。

モアブの一件を見ると、モーセ集団が外部の敵よりも内部の敵の方を重視していたことがよくわかるでしょう。

実はモーセとほとんど同じような形で、戦闘集団と分かち難い信仰集団を組織した実在の人物がいます。

イスラームの開祖・ムハンマドがそうです。

ただしムハンマドの場合、モーセと違って軍事的才能が傑出していました。

ムハンマドの率いる集団は、ごく初期を除くと連戦連勝であったため、信者の不満が溜まりにくく、その結果陰惨な内部抗争を演じる必要がなかったのでしょう。

イスラームの集団で血みどろの内紛が始まるのは、ムハンマドが亡くなった後のことです。

ヨシュア記

ヤハウェはモーセに、「イスラエルの民にカナンの地を与える」と言い、イスラエルの民を組織してエジプトから脱出させました。

ただし、エジプト脱出時に20才以上だった者で、カナンの地に入れた者はたった2人しかいなかったのです。

モーセも、その兄アロンも、カナンの地に入る前に亡くなってしまいました。

その大部分が「背信行為をした」という理由でヤハウェによって殺されているのですから、モーセとヤハウェとの間に交わされた契約とは一体何だったのだ、と考え込みたくなります。

ある意味、この時の「契約内容」が、当事者たちとの間に果たされなかったからこそ、後の世になって「約束の地は人の心の中にある」と言われるようになったのかも知れません。

さて、エジプト脱出時の成人メンバーで、カナンの地に入ることができた2人のうちのひとりがヨシュアです。

もうひとりは、ユダ族のカレブでした。

「ヨシュア記」は、モーセによって後継者に指名されたヨシュアの、モーセ死後の活動を記した書なのですが、その大部分が軍事遠征の描写で埋め尽くされています。

モーセは素早く決断して人々を動かす、というタイプの指導者ではありませんでした。

軍を組織しても常にダラダラと動かすので、軍紀が乱れて「裏切り者」が出、その粛清に追われていたのです。

しかしヨシュアは根っからの軍人であるようで、チャンスだ、と思ったらすぐに行動する機敏さを持っていました。

形の上ではモーセの後継者、と位置づけられていましたが、その内実はどちらかというとモーセの兄アロンの役割を引き継いだもののようです。

つまり、実務的なことを担当する指導者だった、ということです。

モーセの持っていた、カリスマ的・宗教的指導者という役割は、アロンの息子エルアザルに引き継がれています。

余談ですがアロンはイスラームでは「ハールーン」と呼ばれ、宗教的指導者であったムーサー(モーセ)のワズィールだったと説明されています。

ワズィールというのは日本語では「宰相」と訳されます。

ヨシュアの地位は、宰相よりもちょっと高い、日本でいう征夷大将軍のようなものだったと想像されます。

エリコの戦い

「ヨシュア記」は、「これからヨルダン川を渡ってエリコを攻める」というヨシュアの決意を神への讃歌の形で語るところから始まります。

「ヨシュア記」を含む「旧約聖書」は基本的に宗教書・律法書ですから、軍事的な行動に関する記述にはかなりの宗教的バイアスが入ります。

しかし、そのバイアスがかかった状態で見ても、ヨシュアが優れた戦術家であり、戦場でテキパキとやるべきことを積み重ねて勝利を得るタイプであったことがわかります。

ヨシュアたちが布陣していたモアブと、最初の攻略目標であったエリコとの間には、ヨルダン川がありました。

これをどう渡河するかが、攻略戦の鍵となります。

ひょっとするとモーセは、エリコ勢に襲われずに安全にヨルダン川を超える方法を思いつかなかったので、延々とモアブに滞陣し続けたのかも知れません。

ヨシュアにはどうやら渡河作戦のイメージが脳内にあったようです。

彼はまずエリコの街に斥候を派遣しました。

戦闘前に敵地の状況をよく知っておくのは、名将の基本です。

ふたりの斥候は無事にエリコの街に潜入することに成功します。

彼らはラハブという娼婦の家に忍び込み、エリコの街の人々はこれまで攻略した街で徹底した殲滅戦を敢行したイスラエルの軍を非常に恐れている、ということを知りました。

ラハブは「この戦はイスラエル側の勝ちだ」と判断しており、斥候に対して「安全に逃がしてあげるけど、その代わりイスラエル軍がエリコに乱入した際には、自分と一族の命・財産の安全を確保して欲しい」と頼み込みます。

斥候は戻ってヨシュアに事の次第を報告し、ヨシュアはラハブ一族の命と財産の保証を約束します。

準備が整ったので、ヨシュアの軍は前進を開始します。

まずはヨルダン川の渡河ですが、これはモーセの十戒を入れた箱、つまり聖櫃(アーク)を持った神官団をヨルダン川の上流に送り込み、川をせき止めてその下流側を主力部隊に渡らせる、という方法を取りました。

これは中国で戦闘の天才と呼ばれた淮陰侯韓信(わいいんこう かんしん)が採用した戦術とよく似ています。

もっとも韓信の場合、川を浅くして敵に渡河させ、途中で堰を切って敵の後続を押し流し、すでに渡河した先鋒を包囲殲滅する、という方法でしたが。

渡河後、エリコの街を包囲したヨシュアは、聖櫃を担いだ神官団にラッパを持たせ、一日一回エリコの城壁の周囲を回らせます。

回った後は一斉にラッパを吹かせ、その後宿営地に戻らせる、というのを6回繰り返しました。

この間、ヨシュアは主力軍には「声を立てるな」と厳命しています。

7日目、今度は城壁の回りを神官団に7周させます。

そしてラッパを吹かせた後、主力軍に一斉にときの声をあげさせ、そのまま城壁に突入させました。

城壁はラッパの音で崩れてしまったので、イスラエル軍はエリコの街になだれ込み、エリコ市民を虐殺して回ります。

ただし、事前の指示どおりラハブとその家族は城壁突入後すぐに財産ごと身柄を確保され、安全な場所に後送されています。

ヨシュアはちゃんと約束を守ったのです。

総指揮官が戦場での約束をしっかりと守ると、兵たちの総指揮官に対する信頼が上がり、軍紀が引き締まります。

ヨシュアはこうした「戦場のツボ」をよく心得ていたようです。

なお、史実上のエリコは、その起源が紀元前1万年にまで遡れるという、非常に歴史の古い街でした。

一説には「世界最古の都市」であったと言われます。

このエリコの古い方から2番めの遺跡(紀元前8500年前から7000年ほど前)において、すでに街は城壁に覆われていたといいます。

その後幾度か滅亡→再建を繰り返していたのですが、紀元前1560年頃にヒクソスの侵入を受け、城壁が破壊されまた廃墟と化しています。

実際に神官団がラッパを吹いただけで城壁が崩れて廃墟になるとは信じられませんが、可能な限り「ヨシュア記」の記述に忖度して再構築すると、以下のようになるのではないでしょうか。

ヨシュアは斥候のもたらした情報により、エリコ市民が自分たちに強い恐怖心を持っていることを知ります。

そこで、神官団にラッパを吹かせて、その恐怖心をさらに煽ったのです。

これを6回繰り返し、エリコ市民がラッパによる脅迫に慣れてしまったのを見届けると、今度は7回繰り返し、それまで禁じていた一般兵士にときの声をあげさせ、市民の抵抗する心を根こそぎへし折った、と。

この状態なら城壁が堅固であっても内部からの攻撃はなく、侵入部隊は少数であっても安全に中に入り込めます。

あるいは、ラハブのように「もうダメだ」と思った人間が自分の命の安全と引き換えに、イスラエル軍を城壁内部に誘導したのかも知れません。

いずれにしろ、何らかの巧みな戦術が背後にあり、それを「旧約聖書流に」書き換えるとあんな形の描写になったのではないかと思われます。

先に書いたように、モーセが率いたイスラエル軍団は常に内紛が耐えなかったのですが、ヨシュアが指導者となると兵は皆彼の言うことをよく聞き、命じた通りに動くようになりました。

これはヨシュアが軍人として優秀であったからでしょう。

ただ、エリコの戦いにおいては、ごく一部に軍令違反者が出ました。

ヨシュアは「神への奉納物は略奪してはいけない」と命令していたのですが、これに背いて奉納物を我が物としてしまった兵士がいたのです。

ヨシュアはエリコの次に、アイという街を攻略しようとします。

まずはエリコの場合と同様に、アイに斥候を派遣し、「戦略偵察」を行わせます。

その結果ヨシュアは「3千の兵があれば大丈夫だ」と判断し軍を送るのですが、惨敗してしまいました。

「ヨシュア記」で見る限り、ヨシュア唯一の敗戦です。

ここでヤハウェが出現します。

そしてヨシュアに、軍中に軍令に背いたもの(つまり神の命令に背いたもの)がいると告げたのです。

「それを見つけ出して処断しないとアイを攻略できないよ」とヤハウェは付け加えました。

神であるからにはヤハウェは軍令違反の犯人が誰であるかわかっているはずなのですが、あえてその名を告げません。困った性格の神です。

そこでヨシュアは、12の部族にくじを引かせ、次に当たった部族の各家族にくじを引かせ、最後に個人にくじを引かせました。

その結果、アカンという人物が「当たり」を引いてしまいました。

ヨシュアが詰問すると、アカンは軍令違反の犯人は自分であると告白し、私物化した戦利品の隠し場所をヨシュアに告げました。

ヨシュアはすぐにアカンとその家族を引き出して石打ちで処刑します。

「信賞必罰」もまた軍紀を引き締める秘訣であり、この処刑はイスラエル軍全軍の士気を引き上げる効果をもたらしました。

「くじ」つまり神による犯人探しを先にしているので、「ねたむ神」であるヤハウェの顔を立てたことになります。

ただ、同時にちゃんと証拠品を押さえてもいますので、神の名を借りた一方的な処刑(つまり内ゲバ)ではなく、公平な処置であったという印象を兵士に与えることにも成功しています。

こうして短期間にイスラエル軍の軍紀の緩みを引き締めたヨシュアは、今度は3万の大軍を組織してアイ攻略に取り掛かります。

この3万の軍は、夜陰に紛れてアイの街の背後に配置しました。

そしてヨシュアは自ら少数の兵を率いてアイを攻め、敗走するふりをしてアイ防衛軍の主力を城壁外に引っ張り出します。

頃合いを見計らってヨシュアは伏兵に突撃を命じ、アイの兵を包囲殲滅してしまいました。

その後イスラエル軍はアイの街に侵入し、エリコ同様に住民を皆殺しにしてアイを滅ぼしてしまいます。

エリコ以後

ヨシュアとその軍勢は、エリコとアイでは街を徹底的に破壊し、住民を皆殺しにしてしまったのですが、どうもこれは考えなしに破壊衝動に身を任せた行動ではなかったようです。

「攻めると必ず皆殺しにする恐怖の軍隊」というイメージを周囲に撒き散らし、周囲の民族の心を折って積極的に降伏させるのが、この虐殺の目的であったように見受けられます。

これはずっと後に、チンギス・ハーンとその一族が率いたモンゴル帝国が取った戦略とよく似ています。

モンゴル帝国はまず敵に対して使者を送り、降伏を勧告します。

敵が勧告を受け入れればそのまま自分の同盟国として迎え入れますが、拒否した場合は全力で攻めかかり、住民を皆殺しにして都市を廃墟に変えてしまいます。

モンゴルのこの手が通用しなかったのは、ベトナムと日本だけでした。

というわけで、アイ以降は、カナン地方の国(都市国家?)の中にはイスラエル軍に降伏するものがぽつぽつ出てきます。

中には近くの国なのに「遠くから来た」と偽装してヨシュアの同情を買おうとしたような国もありました。

これは後に詐欺であったと発覚するのですが、ヨシュアはその都市の住民を奴隷化したものの皆殺しにはしませんでした。

「降れば殺さず」という原則を守り抜いたのです。

しかし、抵抗しようという勢力が全くなかったわけではありません。

この当時エルサレム近辺を統治していた王は、自分もエリコやアイの王同様の目に遭わされると思い、周囲の王国の王と同盟を組んで、ヨシュアに対抗しようと考えました。

ヤハウェは「わたしがまた勝たせてやろう」という主旨のことをヨシュアに告げるのですが、ヨシュアがこれをまともに聞いていたかどうかはわかりません。

ヨシュアはイスラエル軍の精鋭を素早く動かし、同盟軍を奇襲して撃破してしまったのです。

もちろん、追撃戦は容赦なく徹底的に行いました。

多数の勢力の同盟軍、つまり指揮者が多数いてまとまりにくい軍に対しては、奇襲速攻して指揮命令系統を寸断してさらに混乱させて勝つ、という基本を、ヨシュアはしっかり知っていたようです。

ヤハウェは日食・月食を起こしたり天から石を投げたりしてヨシュアに助力した、と書かれていますが、勝利の主因はどう見てもヨシュア本人の果断な行動に求められるでしょう。

モーセの時代、ヤハウェは嬉々としてエジプト人に大災厄をもたらしたり、自分に背いたという理由でイスラエルの民の大虐殺を行ったりしていました。

それはモーセが神べったりで自分自身では行動できないタイプの人間だった(少なくとも「出エジプト記」からはそう読み取れてしまいます)ことも一役買っていたのでしょう。

しかし、ヨシュアは「自分で判断して行動できる」タイプなので、ヤハウェがちょっかいを出せる余地が少ないのです。

こういう人が相手だと普通はヤハウェの側に過大なストレスが溜まるものですが、ヨシュアはしっかりヤハウェを立てるところでは立てています。

ヤハウェの命令には一切背かないので、ヤハウェとしてもヨシュアと喧嘩することはできません(ちなみにモーセとは互いに愚痴の言い合いのようになってしまったことが何度もあります)。

さて、ヨシュアの快進撃はさらに続きます。

先に述べたように、彼の戦略はモンゴル帝国のものと同じなので、戦った相手は必ず殲滅し、兵も市民も皆殺しにしています。

ハゾルという国のヤビンという王は、ヨシュアを恐れて周囲の王たちと同盟を結び、イスラエル軍に立ち向かおうとしました。

同盟でなんとかしようとしたあたり、エルサレム王と同じですが、ヤビン王はそれだけではなく、戦車や騎馬隊を揃えて、ヨシュアに対抗しようとします。

イスラエル軍の特徴は「とにかく数が多いこと」だったので、数の劣勢を兵器の質で補おうとしたのです。

着眼点は悪くなかったと言えるでしょう。

しかしやっぱり同盟軍であるため指揮系統が複雑になるという弱点があります。

ですからヨシュアは精鋭を率いて当たり前のように奇襲してきます。

それだけでなく戦車は火攻めにし、馬はその脚を狙い撃ちにして行動不能に追い込み、徹底的に殲滅してしまったのです。

一応、「ヨシュア記」では戦いの前にヤハウェが「火を使え、馬の脚を狙え」とアドバイスしたことにされていますが、これはどう考えても神の奇跡ではなく人の知恵に属するものです。

ヨシュア記もモーセ五書同様、自分の死とその後以外ヨシュア本人が書いたとされていますので、ヨシュア自身が自分の手柄をヤハウェに譲ってこのような記述になった、と考えられなくもありません。

「ヨシュア記」は全部で24章あります。

そのうちヨシュアの軍事行動について書いてあるのは、前半の11章ほどです。

第12章から21章までは、ヨシュアが征服した土地を、イスラエル12部族にどう与えていったかが書かれています。

レビの子孫に土地が与えられず、祭司氏族として特別扱いされる、というのも、この部分で説明されています。

内容はほとんど氏族名と割り当てられた土地の名前の羅列なので、読んでいて面白いものではありません。

第22章では、イスラエルの民の間で内紛が発生しかけたことが語られます。

12部族のうち、9部族はヨルダン川西岸に居住地を割り当てられました。

しかし、ルベン族・ガド族・マナセ族の3支族は、ヨルダン川東岸に残ったのです。

そしてこの3部族が、独自に祭壇を築こうとしている、という噂が他の支族に流れてきました。

噂は果たして事実であり、9支族の族長は「離反である」として3支族を攻めようとします。

しかし、3支族の長が「遠い将来に支族間の交流が疎遠になった際、我々の神があなたたちの神と同じ神であることがすぐわかるように、ヤハウェの祭壇を築くのだ」と説明します。

9支族の代表たちは、この弁明を認め、そのまま引き上げます。

モーセの時代だったら、間違いなくこの一件は内紛に発展し、ヤハウェは3支族を惨たらしい方法で皆殺しにしてしまったことでしょう(実態はモーセの取り巻きが「ヤハウェのお告げだ」と称して虐殺を指示する、という感じですが)。

それが話し合いで解決してしまったあたり、有能な指導者を頂いて数々の成功を収めた結果、民族全体が寛容になった結果ではないかと思われます。

第24章では、老いたヨシュアがイスラエルの民たちに遺訓を残し、息を引き取るまでの過程が描かれています。

「申命記」がまるごとモーセの遺訓となっていることと比べると、随分とあっさりしています。

その言い残したことも実にシンプルです。

まとめると「民族の団結を維持せよ」ということになります。

そのために共通の神を信じ、掟を守れと、ヨシュアは語っているのです。

また彼は、「被征服民と同化するな」とも語っています。

同化は民族の団結を弱めるからです。

ヨシュアがこうまで「民族の団結」にこだわったのは、それが軍事的な強さの根幹になると考えたからでしょう。

モーセが生涯「宗教的過激集団の神がかったリーダー」であったのに対し、ヨシュアは常に「正規軍の軍人」というイメージを保ち続けました。

ヨシュア以後

モーセによる「エジプト脱出」から、「約束の地」であるカナンに至り、そこに根拠地を築くまでが、旧約聖書の第2のグループを構成しています。

具体的には、「モーセ五書」の中から「創世記」を除いた4書(「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)に、「ヨシュア記」を加えたものです。

これらは「創世記」までひっくるめて「6書」扱いされることもあります。

集団のリーダーとして、モーセとヨシュアは対極にあると言っても過言ではありません。

モーセはある意味神秘主義者で神の言葉を絶対視し、その言葉に盲目的に従うリーダーでしたが、ヨシュアは極めて現実的であり、ヤハウェの言葉を咀嚼して自分の考えに作り変えてから行動していた節があります。

モーセはどうやら実務家としてはかなり能力が低かったのではないかと思われますが、ヨシュアの実務処理能力は傑出しています。

近代人から見れば、ヨシュアの方がモーセよりもずっと理解しやすいのではないかと思います。

さてヨシュアの死後、イスラエルの民たちの間には、スケール的にはモーセやヨシュアに匹敵する指導者はしばらく登場しなくなります。

ヨシュア型の指導者がいなくなる、ということは、イスラエルの民による周囲の諸民族への攻勢の時期が終わり、逆に守勢に立たされるということでもあります。

こうなると12の支族による一種の連邦国家であった、という点が災いし、支族それぞれもばらばらになって行きます。

「民族の団結を守れ」というヨシュアの遺訓は守られなかったのです。

ヨシュアの後継者となったのは、ユダとシメオンの兄弟でした。

彼らはカナン人と戦い、それなりの成功を収めます。

しかし、ヨシュア時代のような殲滅戦はめっきり少なくなり、イスラエルの民は征服地の原住民(カナン人)と共存するようになります。

その結果、カナン人たちが信じていた神であるバアルやアスタルテの信仰に染まってしまうイスラエルの民が続出しました。

バアルは現在のパレスティナ地方で信仰されていた風の神です。

地中海から吹いてくる風はパレスティナに雨を降らせるので、豊穣神・農耕神として信仰されるようになりました。

アスタルテはメソポタミアのイナンナやイシュタルと同じ起源を持つとされる美と愛(単なる愛ではなく多分に性愛)の女神です。

バアルとは兄妹の関係ですが、同時に夫婦でもありました。

ちなみにウガリット神話においては、アスタルテにはアナトという姉妹がおり、共にバアルの妻となっている、という設定になっていましたが、「旧約聖書」にはアナトは登場しません。

また、アスタルテはイスラエルの民からは「アシュトレト」と呼ばれました。

これはヘブライ語で「恥」を意味する単語を埋め込んだ結果で、その名で呼ぶことがそのまま女神への蔑称となっているということです。

アスタルテについては、豊満な姿の女神像が数多く作られ、信仰の対象とされていました。

他方、ヤハウェは自分の神像や肖像を作ることを厳しく禁じています。

気難しくすぐ祟り、自らを「妬む神」と呼ぶような老神と、若く可愛らしい姿を持つ女神のどちらを信仰するか、と二択を迫られ、前者を選ぶ人はかなり少ないでしょう。

モーセによってエジプトでヤハウェ信仰が盛んになったのは、繰り返し民に対し災厄をもたらし、恐怖で思考停止状態に追い込んだ結果だと思われます。

つまりイスラエルの民は「洗脳」されたとも言えるのです。

それが解ければ信仰が廃れるのもまた当然でした。

しかしヤハウェは「イスラエルの民がわたしを信じないから、わたしはヨシュアが滅ぼしきれなかったカナンの先住民たちを追い払わずに置いた。これはわたしがイスラエルの民を試そうと思っているからである」と語ります。

ほぼ負け惜しみに聞こえます。

というわけで、この後しばらくは、「神がわざと残した」周辺の異民族からイスラエルの民が圧迫を受け、「士師」と呼ばれる小粒の民族指導者がこれをはねのけ、しばしの間平和に統治する、ということの繰り返しになります。

この士師たちの活躍について記しているのが「士師記」です。

「士師記」または仁義なき戦いの時代

イスラエルの民がバアルおよびアシラを信仰したというので、ヤハウェは腹を立てイスラエルの民をメソポタミアの王に売り飛ばします。

この結果イスラエルの人々は8年間の間、メソポタミア王に支配されることになりました。

ちなみに、アシラというのはウガリット神話における女神アーシラトのことだと考えられています。

このアーシラトは、ヤハウェの原型であったウガリットの天空神イルの妻とされていた女神です。

さらに脱線しますが、バアルはイルの息子とされていました。

自分の息子や嫁さんを讃えられたのに怒るとは、随分と狭量なように思えます。

それはともかく、イスラエルの民がメソポタミアの支配を受けて8年の後、ヤハウェはイスラエルの民を救済する任務を帯びた人物を遣わします。

これが、最初の士師と呼ばれるオテニエルです。

オテニエルはメソポタミアの王との戦いに勝ち、イスラエルの民を解放して40年の間の平和をもたらします。

しかしオテニエルが死ぬと、イスラエルの民はまた悪に染まります。

その悪が具体的にどういうものであったのかは、「士師記」には書かれていません。

恐らくヤハウェの信仰を捨てバアルやアシラの信仰に走った、とかそんなところでしょう。

それはともかく、イスラエルの民を「悪」と断じたヤハウェは、モアブ王エグロンの勢力を強め、イスラエルの民を圧迫させます。

エグロンは18年に渡り、イスラエルの民を支配したとのことです。

この支配に苦しんだイスラエルの民が神に訴えると、ヤハウェは新たなる救助者を遣わしました。

ベニヤミン族のゲラの子エホデです。

イスラエルの人々はエグロンに貢物を贈ることとし、それをエホデに持たせてエグロンの元に送り込みます。

貢物を捧げた後、エホデはエグロンに「ぜひお教えしたい秘密がある」と囁いて人払いをさせます。

そしてエグロンの部下がいなくなると、衣の下に隠していた長剣を引き抜き、エグロンの腹に突き立て殺害しました。

エグロンは非常に肥満しており、突き立てた剣を抜かなかったので脂肪が刃を塞ぎ、汚物が出た、と妙にリアルな描写がなされています。

エホデはエグロンの王宮から逃れた後イスラエルの民を呼び集め、モアブ人を打倒してイスラエルの民の独立を回復します。

その後エホデは80年の平和をもたらしました。

エホデの後、シャムガルが士師となりました。

ですがこの人物はオテニエルやエホデよりもさらにスケールが小さく、「士師記」での記述も一行のみです。

この手の士師はこの後も登場しますが、「小士師」として、長い記述が残る「大士師」と区別されます。

エホデがやったことは敵国の王の暗殺です。

言い方を変えるとヤハウェ親分の鉄砲玉になった、ということです。

日本のヤクザの組織においては、鉄砲玉になって敵の親分の命(タマ)を取った組員は刑務所での刑期を終えた後、幹部として登用されます。

「旧約聖書」の世界では異邦人の王を殺すことは善であり刑務所に行かなければならないようなことではありませんから、暗殺後すぐにエホデは「ヤハウェ組の親分」に出世したというわけです。

「士師」は王でもなく、宗教指導者でもないという中途半端な存在ですが、ここで説明したようなイメージのものだと考えると、多少理解(誤解も?)しやすくなると思います。

そういう指導者ですから死ぬとその子が後を継ぐこともできず、民族全体がすぐ混乱状態に陥ってしまうのです。

エホデが死ぬとまたイスラエルの民は悪をなすようになります。

そこでヤハウェはイスラエルの民をカナン王ヤビンに売り渡します。

ヤビンは将軍シセラを送ってイスラエルの民を支配させました。

シセラによる支配は20年にも及びます。

20年後、またもイスラエルの民が怨嗟の声を上げるようになりました。

そのため、ヤハウェは女預言者デボラを通してアビノアムの子バラクを招き、ナフタリ支族とゼブルン支族による1万人の軍勢を率いて、カナン人と戦え、と命じました。

バラクはデボラに、「一緒に行ってくれ」と頼み、デボラは承諾します。

バラクとデボラの率いる軍勢はシセルの軍を打ち破り、シセルは徒歩で逃走しました。

逃げたシセルはヘベルの妻ヤエルという人物に匿ってくれと頼みますが、ヤエルはシセルが眠るとそのこめかみに釘を刺して殺してしまいます。

バラクとデボラはさらにカナン王ヤビンも撃破し、40年の平和をもたらします。

一応一軍を率いて戦ってますから、バラクとデボラは士師ではあってもヤクザっぽくはなかったようです。

バラクとデボラによる支配が終わるとまた同じパターンが繰り返されます。

今度はイスラエルの民はミディアン人に支配され、7年の圧政の後、イスラエルの民は助けを求めます。まったく凝りていません。

次にヤハウェから遣わされたのはギデオンという人でした。

ギデオンの父はバアルとアシラを信仰していたので、ヤハウェはまず父のバアルの祭壇を破壊し、アシラの像を切り倒せと命じました。

ギデオンは夜中こっそりヤハウェの命令どおりにしますが、翌朝破壊された祭壇を見た人々(イスラエルの民)は「誰の仕業だ」と犯人探しを始め、ギデオンが犯人であると突き止めます。

街の人々はギデオンの父にギデオンを引き渡すように求めますが、父は「バアルがもし神であるならば、自分の祭壇が打ちこわされたのだから、彼みずから言い争うべきです」と言い放ちます。

祭壇の持ち主はこの父であったはずなのに、奇妙なことを言うものです。

道理よりもその場の勢いが優先されるあたり、またヤクザっぽさが蘇ったようです。

しかし結果的に、ギデオンのこの行動はイスラエルの民の支持を受けるようになり、ミディアン人に反感を持つ人々がギデオンの回りに集まるようになります。

彼らはミディアンの軍勢と決戦するために陣を張りますが、ヤハウェは「人数が多いからまだ勝たせてあげない」とまた妙なことを言い出します。

そこでギデオンは「戦いを恐れているものは去れ」と集まった人々に言いました。

その結果2万2千人が帰ってしまい、1万だけが後に残りました。

「まだ多い」とヤハウェは言い、さらに民を試すことにしました。

その試しというのは、泉で水を飲ませるというものでした。

民のうち300人だけが水をすくって手で飲み、他はひざまずいてかがんだ姿勢で水を飲みました。

ヤハウェは前者300人だけを残し、他は家に帰らせます。

「軍隊同士の激突」が「ヤクザの抗争」レベルにまでスケールダウンしてきました。

ギデオンは300人を100人ずつ3隊に分け、ラッパを吹き鳴らしながら突撃します。

ミディアン人は驚いて同士討ちを始め、潰走します。

その後もギデオンはミディアン人を追撃していったのですが、あまりにも少数でことを運んでしまったので、他の親分衆…ではなく戦いに参加できなかった人々の反感を買ってしまったようです。

追撃の途中で2つの同胞の街から食料援助を受けられなかったので、ギデオンはこれらの街に復讐しています。

残ったイスラエルの民は、ギデオンに彼らを治めてくれと頼みますが、ギデオンは拒絶しました。

王になることを辞退する代わりに、ギデオンは戦利品であったミディアン人の金の耳輪をくれとイスラエルの民に要求します。

これによって莫大な量の黄金を手に入れたギデオンは、エフォドと呼ばれる祭司用の装身具を作ります。

それを慕ってイスラエルの民はなぜか姦淫を行うことになり、それがギデオンの家にとって罠となった、と「士師記」は伝えています。

しかし世はギデオンが生きている間、40年にわたって平和だったとされます。

ギデオンは多くの妻を持ち、全部で70人もの子をもうけていました。

ギデオンの死後、その子の一人であるアビメレクは、末子ヨタムを除くすべての兄弟を殺し、シケムという街の王になりました。

ヨタムはアビメレクに復讐するかと思われましたが、義兄に対して呪いの言葉を叫んで逃亡してそのまま姿を消してしまいました。

「ただ一人生き残った」という伏線が台無しです。

この悪逆非道の行為を見たヤハウェはアビメレクとシケムの街の人々の間に悪霊を送ったので、彼らは互いに反目するようになります。

その後、シケムの街にガアルという人物が現れ、シケムの人々の支持を集めるようになりました。

ガアルはシケムの人々を率いて、アビメレクと戦います。

この戦いはアビメレクの勝利となり、アビメレクはシケムの街を滅ぼしてしまいます。

もうむちゃくちゃです。

しかし「士師の時代」は「仁義なき戦いの時代」みたいなものだと理解していれば、それなりに納得できる展開のようにも思えます。

余勢を駆ったアビメレクは、テベツという街を攻略しようとしますが、街のやぐらの上にいた女が投げた石臼が頭に当たり、瀕死の重傷を負いました。

もう助からないと観念したアビメレクは、従者を呼び、自分を剣で刺せ、と命じます。

後世「女に殺された」と言い伝えられるのが嫌だから、というのがその理由でした。

死ぬ時までつまらないことで見栄を張ろうとするあたりやっぱりヤクザっぽいです。

アビメレクの死後、トラ、ヤイルといった人物が士師となります。

この2人は小士師に区分されます。

イスラエルの民の名の中には、時々日本人の名前と同じものが出てきます。

ここの「トラ」以外にも、「ルツ記」にはナオミという女性が登場してきます。

このあたりが、「日本人とユダヤ人=イスラエルの民は同祖である」とする説の根拠になっているかどうかは……寡聞にして知りません。

ちなみに日本で一番有名な「寅」こと車寅次郎は香具師といって地方のヤクザの親分のシマを借りて渡りの商売をする職業についています。

ヤイルの死後、イスラエルの民は凝りずにまた悪に染まります。

今度はバアルとアスタルテだけではなく、シリアの神、モアブの神、アンモン人の神まで信仰するようになったと言うので「悪」(もちろんヤハウェ側からの一方的な見方です)の度合いはさらに進んだようです。

ヤハウェはまたも怒り、今度はイスラエルの民をペリシテ人とアンモン人に売り飛ばします。

素朴な疑問ですが、ヤハウェは民を売り飛ばして得た利益を何に使っていたのでしょう。

「士師記」は何も答えてくれません。

ギレアデという街に住むギレアデという人の子に、エフタという男がいました。

エフタはギレアデの正妻の子ではなく、娼婦との間の子でした。

このため一家の厄介者とされ、成長後家から追い出されてしまいます。

エフタはトプという街に逃げ、そこで正真正銘のヤクザ者のリーダーとして頭角を現します。

イスラエルの民がアンモン人と戦うことになった時、ギレアデの街の長老たちは、エフタを呼び戻して軍隊を率いさせようとします。

なんだか、漢の高祖劉邦の話を聞いているようです。

もちろん劉邦は、エフタよりずっと後の人物なのですが。

さてアンモン人がギレアデの街に攻め寄せると、エフタはアンモン人の王に、彼らの不当性を理路整然と訴え、兵を引くようにと求めます。

しかしアンモン人の王がそれを聞かなかったため、エフタは一戦してこれを打ち破りました。

エフタは戦いの前に、「勝って帰った後わたしを出迎えたものを犠牲として捧げましょう」と神に誓っていました。

エフタが家に帰ると、一人娘が出迎えます。

エフタは嘆き悲しみながら、でもヤハウェとの誓いは絶対だから、と娘に告げます。

娘は自分の運命を受け入れますが、処女のまま死ぬのを嘆くのに二ヶ月の猶予をくれ、と父に言います。

エフタはそれを許し、娘は家を出、二ヶ月後に帰ってきてエフタの手にかかりました。

死んだ時、娘はまだ処女のままだったそうです。

二ヶ月の猶予の間に男を知ってくればいいのに、と考えてしまうのはわたしたちが現代人だからでしょうか。

エフタの後、イブツァン・エロン・アブドンという士師が登場します。

いずれも「小士師」に分類されます。

サムソンとデリラ

「士師記」に出てくる士師たちのエピソードは、似たようなものの繰り返しが多く、最初のうちはあまりおもしろいものではありません。

しかし、徐々に話が劇的になってきます。

アブドンの後、イスラエルの人々はまた悪を行ったので、ヤハウェは彼らをペリシテ人の支配下に置きました。

今度は40年の長きにわたります。

そんな中、ダン支族のマノアという人物の妻のところに、神の御使いが現れます。

御使いは彼女がやがて男の子を産むであろう、と告げました。

さらに「その子はイスラエルの民を救うでしょう」とも。

やがて彼女は御使いの予言どおりに男の子を出産し、その子にサムソンと名付けます。

成長したサムソンはテムナという街に行き、ペリシテ人の娘に一目惚れします。

しかしサムソンは行儀よく育てられていたのか、直接娘に求婚するのではなく、父母に頼んできちんとした作法で娶ってもらおうとします。

サムソンは父母と共にテムナに向かいます。

途中で襲いかかってきた若いライオンを素手で引き裂いて殺してしまいました。

サムソンは人外じみた怪力の持ち主だったのです。

ペリシテ人の娘を娶った時の宴席で、サムソンは客としてやってきた30人のペリシテ人になぞをかけ、「7日の間に解くことができたら、亜麻の着物30と、晴れ着30とを進呈しよう」と言います。

そして「食らう者から食い物が出、強い者から甘い物が出た」という問題を出します。

宴会の客たちは、3日の間なぞを解くことができませんでした。

そこで客たちはサムソンの妻に、「答えを亭主から聞き出して教えろ、さもなくば家に火を付けて焼き殺すぞ」と脅迫します。

妻はサムソンに迫って、答えを聞き出し、それを客たちに教えます。

サムソンは客たちに衣装を与えなければならなくなりました。

そこで神がサムソンに下りて、サムソンはアシュケロンの街に行ってペリシテ人30人を殺し、その衣装を奪って客たちに与えたのです。

この事件の後、サムソンの妻の父はサムソンの妻を別の男に与えてしまいました。

「士師記」の記述は非常にわかりにくいのですが、要するにサムソンとペリシテ人の間に因縁が発生し、それが成長してサムソンが「ペリシテ人絶対殺すマン」に変貌していく過程が描写されていく、と考えてください。

サムソンは狐300匹を捕らえ、その尾と尾を結び合わせ、間に松明を結んでペリシテ人の畑に追い立て、畑を焼き払います。

驚いたペリシテ人たちは「これは誰の仕業だ!」と叫びます。

サムソンは「テムナの婿であったサムソンの仕業だ」と告げます。

ペリシテ人たちはサムソンの元妻の家に放火して燃やしてしまいます。

まだ妻を愛していたサムソンは、これでさらにペリシテ人に対する敵愾心を燃え上がらせます。

サムソンは無数のペリシテ人を殺し、逃げてエタムの岩の裂け目に身を隠します。

ペリシテ人は報復として、ユダの街レヒを攻撃します。

とばっちりを食ったユダの人々はサムソンの所に来て、彼を捕らえペリシテ人に引き渡します。

ペリシテ人なら誰であろうと無慈悲に殺すサムソンでしたが、同族には暴力を振るわず、おとなしく捕まりました。

サムソンがレヒに到着すると、ペリシテ人が歓声をあげます。

その瞬間、ヤハウェがサムソンに宿り、サムソンは怪力を奮って自分を戒めていた縄を引きちぎってしまいます。

サムソンはたまたまそばに落ちていたロバの顎の骨を拾い、それを武器にして千人のペリシテ人を殺してしまいました。

その後サムソンは20年の間イスラエルの民を束ねたと言います。

通常の士師の話なら、ここで終わりになりはい次の人、となるのですが、サムソンの場合はこれでは終わりません。

というより、ここからが本番になります。

サムソンはある時ガザに行き、そこの娼館に入ります。

密告があり、ガザの人々は朝まで待ってサムソンを殺そうと集まってきました。

しかしサムソンは、夜中に起きると街の門の扉と門柱を引き抜き、肩に乗せてゆうゆうとヘブロンの向かいにある山を目指します。

サムソンのあまりの怪力に衝撃を受けたガザの人々は、これでサムソンを殺す気を失ってしまいます。

その後、サムロンはデリラという女性とねんごろになります。

ペリシテ人たちは、デリラを使ってサムソンの怪力の秘密を聞き出そうとします。

まずは報酬として銀貨千百枚を与える、と言ってデリラを買収しました。

サムソンがやってきた時、デリラは彼に怪力の秘密を問います。

サムソンは「乾いたことのない7本の弓弦で縛られれば弱くなる」と言いました。

デリラとペリシテ人は、サムソンが寝たのを見計らって弓弦でサムソンを縛りましたが、目を覚ましたサムソンはこともなげに弓弦を引きちぎってしまいます。

その後デリラは合計三度に渡ってサムソンの怪力の秘密を聞き出そうとしますが、サムソンはその度に嘘を言いました。

デリラは「三度も嘘をついた。わたしを愛していないのね」とサムソンをなじります。

デリラを愛していたサムソンは悩み、とうとう本当の秘密をデリラに明かしてしまいました。

それは「サムソンは生まれた時から神に捧げられたものであって髪にかみそりを当てたことがなく、このため髪を剃られると怪力を失う」というものでした。

サムソンはついにペリシテ人に捕らえられます。

ペリシテ人はサムソンの両目をえぐり、青銅の足かせをつけて獄舎に繋ぎました。

投獄された間、サムソンの髪は徐々に伸びていっています。

宿敵サムソンを無力化したペリシテ人は喜び、彼らの神ダゴンに捧げるためにサムソンを見世物にしようとします。

サムソンをひと目見ようと集まってきたペリシテ人の男女は、3千人にも登ったそうです。

サムソンは「わたしはペリシテ人とともに死のう」と言い、人々が集まっていた建物の柱を引き抜き、屋根を人々の上に落とします。

当然サムソンも下敷きになり命を失いました。

サムソンが死ぬ時に殺したペリシテ人の数は、生きている時に殺した数よりも多かったそうです。

士師サムソンのエピソードが終わった後も、「士師記」はしばらく続きます。

しかしそれは、時系列的に言えばサムソンの時代よりもずっと前の部族のエピソードです。

実質的に「士師記」はサムソンの話とともに終わっているのです。

まとめ

「出エジプト記」から「ヨシュア記」に至る話は、エジプトで隷属民として暮らしていたイスラエルの民が、モーセというカリスマ的指導者を得て熱狂的な宗教団体として組織され、さらにヨシュアという優れた軍事指揮者の元でカナンの地を我が物としていく物語である、と言うことができます。

ヨシュアの死の直前あたりが、このイスラエルの民の団結のピークで、ヤハウェを崇拝する宗教も強固なものとなっていきます。

しかしヨシュアの死後、元々独立性の高い12支族の連合体であったイスラエルの民の弱点が露呈するようになり、イスラエルの民は周囲の異民族の攻勢に晒されるようになります。

この時期、士師と呼ばれる小粒な指導者が輩出し、イスラエルの民を導くのですが、士師による平和は長続きしません。

士師たちの時代は400年以上続いたと言われます。

この間「悪」に染まりっぱなしだったイスラエルの民ですが、徐々にまた団結の兆しが見えてくるようになります。

その先駆けとなるのが、異邦人の女性ルツの生涯を描いた「ルツ記」です。

ルツのひ孫がダビデで、このダビデの時期までにイスラエルは統一され、二度目の盛期を迎えるのです。

【旧約聖書のストーリーその1】創世記

【旧約聖書のストーリーその3】ルツ記~サムエル記上

【旧約聖書のストーリーその4】「サムエル記下」~「列王記上」

【旧約聖書のストーリーその5】バビロン捕囚まで

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